5.あなたには敵わない


「せんせいの家に連れてって?」

 真奈美は戸惑いつつも、『半径50cm以内に近づかないこと』という条件付きで那智の提案を受け入れることにした。
 このような返事をすれば、諦めるのではないかと期待したところもあったし、それでも付いて来るのなら、今までのこと、そして那智の真意を聞き出す良い機会だと思ったからだ。
 真奈美の出した条件を聞いたとき、那智は心底残念そうな表情を浮かべたが、「せんせいが望むなら」と渋々ながら結局はそれを承諾してくれた。


 そして、真奈美は自分の住むマンションへ那智を連れてきた。
 ほとんど思いつきで出した『半径50cm以内に近づかない』という条件だったが、二人で並んで歩くには非常に不便な内容だったため、那智から不平を言われた真奈美は途中で距離を縮めることを許し、最終的には『絶対に抱きつかないこと』まで妥協してしまった。
 生徒に対して、微妙に甘くなってしまう自分が憎い、と小さくため息をつく。
 道中、真奈美は今までのことを振り返った。
 手錠を外した後、那智は丁寧に真奈美の両手首の手当てをしてくれた。
 そこで、やっと補習開始時間がとうに過ぎていることに気づいた真奈美が変な悲鳴を上げる。それには那智も少し驚いたようだった。
 那智に対して色々言いたいことがあったのだが、とりあえず礼だけは述べて、逃げるように保健室を後にした。
 直後の補習は散々な形で終わってしまったのは言うまでもなく、それを反省して次の日からは平静でいるよう努めた。
 千聖もあれ以来、真奈美を追及することはなかった。補習も順調に進んでいるように思える。

 だが、何日経っても、あの日の出来事が真奈美の記憶から薄れることはなかった。


 部屋へ招き入れると、那智は子どものようにはしゃいで見せた。
「わ〜せんせいの部屋、きれいに整頓されてるね」
「うーん。というか、忙しすぎてほとんど手をつけられてないだけかな」
 那智の言葉に、真奈美は苦笑いを浮かべる。
 いくら生徒と言えども、男性を自分の部屋に入れたのだ。日ごろから、もう少し部屋をきれいにしておけば良かったと真奈美は少し反省した。
 それと同時に、那智が自分の部屋にいるという現状に、少なからず緊張を覚えた。いつもの見慣れた部屋の中にいる、一つの違和感。
「そ、そこら辺で寛いでいてください。飲み物でも用意しますので」
 変に意識してしまったためか、声は上ずり、口調までおかしくなってしまう。
 ぎこちない足取りでキッチンに向かう真奈美の後姿を那智はリビングから黙って見送っていた。

 そして数分後、ココアの入った2つのカップを手にした真奈美がリビングを覗くと、床に腰を下ろした那智が穏やかな表情を浮かべながら迎えてくれた。
 この状況、……やはり、なんとなく恥ずかしい。
 向かい合わせになるように座り、那智に片方のカップを手渡すと、真奈美は早速本題に入ることにした。
「ねぇ、那智君」
「うん?」
 一つ一つ言葉を選びながら、カップをかたむける青年に問う。
「何であんなことをしたか、訊いていい?」
「あんなこと?」
 カップから僅かに口を離し、那智は首を傾げた。
「……保健室や、……職員室でのことよ」
「ああ、抱きしめたり、キスしたり?」
「〜〜っ!」
「あは。せんせい、顔真っ赤」
 そのままのことを指摘され、真奈美は更に顔を紅潮させた。
「だから、からかうんじゃありません!」
「ごめんごめん。だって、せんせいと一緒にいると面白いんだもん」
 那智の言葉に、真奈美は頭を抱えながら、ため息をつく。
「……面白いからってやりすぎです」
「でも、それだけが理由じゃないよ」
「え?」
「もう、せんせいは鈍いなぁ。まぁ、判ってはいたけど」
 そう言って、那智は一人納得してみせる。
 そして、自分に睨むように視線を向ける真奈美に訊ねた。
「ねぇ、せんせいはどんなときに人に抱きついたり、キスをしたくなる?」
「な……っ」
「どんな相手にそういうことをするんだろう?」
「それは……」
 静かな声で問われ、真奈美は言葉を詰まらせた。
 那智の表情は至って穏やかだが、その瞳だけは違う色を宿しているように見えた。眼差しが、真奈美を捕らえて逃がさない。
 そこまで直接的に言われれば、いかに鈍感な彼女でも察することはある。
 ただ、それを認識するのも、言葉にするのも躊躇われた。理性が真奈美を頑なにさせる。
 けれど、目の前の青年は臆することなく彼女に告げた。
「おれは、せんせいのこと、好き。だから、抱きしめたし、キスもした。……ね、すごく簡単な理由でしょ?」
「で、でも、私は教師で――」
「判ってるよ、そんなこと」
 すっぱりと言い切る那智に、真奈美はそれ以上の言葉を続けることができなかった。
 口を噤んだ真奈美に、那智が表情を変えることなく問うた。
「で、せんせいはおれのことをどう思ってる?」
「え?」
「おれは言ったよ。今度はせんせいの番じゃない?」
 そう言って、真奈美との距離を少しだけ縮める。蒼い瞳がまた近くなった。
「ねぇ。せんせいにとって、おれって何?」
「うっ、…………な、那智君は大切な生徒です」
「……ふぅん」
 やや震えてはいたが、しっかりと紡がれた真奈美の言葉とは反対に、青年の口から漏れたのは落胆にも近いひと言だけだった。
 本心を述べたつもりだったのだが、ある意味模範的な真奈美の答えに、那智は面白くないとでも言いたげに肩を落とす。
「じゃあさ、アイツのことはどう思ってるの?」
「アイツ?」
「A4の……例えば、不破とか」
「ち、千聖君? 彼だって私の大切な生徒です」
 自分のことを問うたときと同じ声色で答える真奈美に、那智は少し複雑な感情を抱きつつも、胸を撫で下ろした。
「……そっか、ならおれも焦る必要はないのかな」
「?」
「ううん、こっちのこと。あのね、せんせい。おれ、せんせいを困らせることはしたくない」
「今までも十分困らせられたと思うけど……」
「そうだっけ?」
 自覚がないのか首を傾げる那智に、真奈美は少しだけ非難するように言う。
「あの日以来、頭の中がいっぱいになっちゃって大変だったんだから!」
「へぇ〜、それは光栄だ」
 満足そうに微笑んでさえいる那智を見て、真奈美は頭を抱えた。
「あはは、この間のことは少し反省してるよ。でも、せんせいは、それでおれを嫌いにはならなかったんでしょ?」
「それは……当たり前じゃない」
 真奈美の答えに、那智は初めてその目を細めた。
「…うん。今のおれには、それだけで十分。それ以上は求めないから」
「そ、そう?」
「うん、…はね」
「え?」
 最後の声は聴こえなかった。だが、那智は横に首を振り、言葉を続ける。
「んーん、なんでもない。つまり、学校でせんせいに迷惑を掛けるようなことはしないから安心してね?ってことかな」
「う、……信じるからね?」
 どうぞ、どうぞと答える那智を真奈美はじっと見詰めた。
 穏やかな表情やその瞳から、彼の真意を探るのはなかなか難しい。
 けれど、今はそれさえも少し楽しく感じられる。そんな自分に気づき、真奈美は不思議な気持ちになった。
「でも、近い未来、きっとせんせいを振り向かせるよ」
「ええっ!?」
「まだ、“つづき”もしてないし」
「な…っ!」
「だから、楽しみにしててね?」
「無理です!!」
 表情をころころ変えて反応する真奈美を見て、那智は朗らかに笑う。その蒼い瞳には、優しい色が宿っていた。

 そんなやり取りの中で、真奈美は一つ判ったことがある。
 生徒に対して微妙に甘くなってしまうのだが、自分は特に那智に甘いのかもしれない、と。
 けれど自省も込めて、生まれかけた感情をそっと胸の奥に仕舞う。
 那智が言う“近い未来”を少しだけ、待ち遠しく感じた。

 ――だが、そう思ったのもつかの間。
「ね、今日は泊まっていい?」
「な!?」
「それに合鍵も欲しいな〜」
 けろっとした顔で、那智はとんでもない爆弾を投下した。
「こら、那智君っ!」
「ん〜、どうしたの?」
「……さっきと言ってることが違わない?」
「そう? これ以上せんせいの『気持ち』は求めないとは言ったけど、おれがせんせいのことを好きなのは変わらないし」
「うっ、でも迷惑掛けないって…」
「うん、『学校では』ね。だから安心して?」
 那智の言葉に真奈美は閉口した。どうやら彼の方が一枚上手のようだ。
「ここに来る前にした約束も守るからさ。ね、いいでしょ?」
 そう言って、那智はまた少し距離を縮める。
 真奈美の平穏な日常は、もう戻ってこないのかもしれない。





 とりあえず、ここで一区切り。ゲームが発売した後、番外編も書いてみたいです。

 ここまで読んでくださってありがとうございました!


 2009.2.27.up(4.4加筆修正)