4.惑い


 真奈美は今までのことを簡単に説明した。
「へぇ〜仙道せんせいがねぇ」
 最後まで聞き終えた那智が、驚くというより、むしろ感心するような声で言う。
「そうなの、誰かが倒れたって聞いて慌ててここに来たのに……」
「災難だったねぇ、せんせい」
 この状況をそんなひと言で済ませてしまう那智を、真奈美は生徒ながら大物だと思った。
「でも、おれが来たんだから、もう大丈夫だよ」
 ぽんぽん、と那智の手が真奈美の頭を優しく撫でる。
「うん、本当によかった。那智君、頼りにしてるね」
 素直な気持ちを口にすると、那智は言葉を返す代わりに目を細めて微笑んだ。


「ねぇ、どこかに鍵がないかしら?」
「ん〜とりあえず、ここの中を探してみる?」
 そう言って、那智は保健室の中を見回し、手始めにと机の上を覗いた。
 真奈美も何か力になれないかと、ベッドから離れようとしたが、パイプ部分に繋がれた鎖がそれを許さなかった。
 無機質な力によって、真奈美の身体はベッドの上と引き戻された。
 乾いた金属音が室内に響く。
「痛…っ」
 手首に走った痛みに思わず、声が漏れる。
「ダメだよ、せんせい。力でどうにかなるものじゃないんだし」
「でも、このままじっとしてなんかいられないから」
 そう応える真奈美に那智は何も言わずに近づくと、彼女の傍に腰掛けた。二人分の重みを受け、ベッドが音を立てて軋んだ。
「どうしたの、那智君?」
 不思議に思った真奈美が尋ねる。那智の蒼色の目は、手錠に繋がれた真奈美の両腕に向けられていた。
「せんせいの手首、赤くなってる」
「うん。外れないかと思って、何度か無理矢理引っ張っちゃったから」
「ごめんね、早く来れなくて」
 そう言って、すまなそうに真奈美の手を自分のそれで包んだ。那智の手の温かさに、真奈美は一瞬どきりとした。
「何言ってるの、那智君が謝ることなんて何もないのよ? むしろ来てくれたことに、すごく感謝してるんだから」
「ううん、やっぱりごめん。おれ、いじわるしたし」
「え、どういうこと――」
 真奈美が尋ねようとしたとき、突然那智に抱き寄せられた。
「少しの間、せんせいを独り占めできるかもって思って……でも罰があたったみたいだ」
「な、那智君?」
 小さく呟かれたその言葉の意味が分からず、真奈美はただ那智の名を呼ぶことしかできなかった。
 背中にまわされた那智の腕が少し震えたような気がして、戸惑いよりも先に慈しみに近い感情が生まれる。
 真奈美も思わず那智の背に触れそうになったが、その動きを両手の手錠が邪魔をした。
 無情な金属音が、微かに響く。
 名残惜しそうに真奈美から身体を離した那智は、今度はその肩を抱き、至近距離で見詰めた。
 間近にあるその顔は、無表情に近く、ただじっとこちらに眼差しを向けてくる。
 真奈美もそれに応えるように、黙って那智を見据えた。
 しばしの間、二人を静寂が包んだが、それを破るように、那智が突然口を開いた。
「ねぇ、せんせい。キスしたい」
「ええ!? いきなり何を言って――んっ」
 尋ねようとした真奈美の声は、那智の唇によって塞がれ、口内に掻き消えた。
 触れるような優しい感触を唇に感じ、真奈美は一瞬何が起こったのか分からなかった。
 一度離れた唇は、間を置かず、また重ねられる。
「ね、ねぇ、那智君、どうしてこんな……きゃ!」
 真奈美が抗議の声を上げようとしたとき、肩を掴まれ、そのまま後方へ押し倒された。同時に手錠の鎖がまた小さく音を立てる。
 覆い被さるような体勢になった那智は、まるで引き寄せられるように再びキスを落とし始めた。
 優しく、ときには激しく。何度も真奈美の唇を自身のそれで塞いだ。
 普段、悠然とした態度を崩さない彼からは想像もつかないほど熱のこもった口付けに真奈美の心は乱れた。
 抵抗しようと首を振り、身をよじっても力で那智に敵う訳もなく、ただ小さな声が漏れるだけで、それは言葉にさえならなかった。
 そして、那智はゆっくりと真奈美の首筋に顔を埋めると、その白い肌に熱いキスを落とした。
「な…ち、くんっ!」
 真奈美の必死の呼び掛けに、顔を沈めていた那智が静かに上体を起こした。
 視線が重なり、不思議な時間が二人の間を流れる。

「ねぇ、せんせい。誰かが倒れたって聞いたとき、心配した?」
「……そ、それは勿論よ」
 突然問いかけられ、真奈美は息と鼓動を整えながらも答えた。
「じゃあ、これにも書いてあるけど、誰が倒れたと思ったの?」
「え?」
 那智がちょうど真奈美の顔の横に置かれた清春からのメモを顎で指して問うた。
「誰?」
「…う、A4の誰かだと思ったの。あの子たち、無茶をするし」
「そっか」
「でも、なんでそんなこと――」
「ねぇ、おれだとは思わなかった?」
「だって、仙道先生がうちの生徒だっておっしゃってたから」
 正確に言えば、その前に『阿呆』が付いていたのだが、担任としての意地でそれは言えなかった。
「な〜んだ、仙道せんせいも気が利かないなぁ」
「え?」
「ううん、なんでもないよ。でも次はおれも候補に入れてね?」
 そう言って、真奈美の鼻先にキスを落とす。
「な…っ」
「あ、ついでに慧も入れてあげると喜ぶかも」
「那智君!」

 カチャリ

「……え?」
 真奈美が那智の名を呼ぶと同時に、手元で何かが開錠する音がした。
 そちらに目を向けると、今まで真奈美を苦しめていた手枷が、いとも簡単に外れている。
 状況の掴めない真奈美を見て、那智は穏やかな表情を崩さずに言った。
「そういえば、さっき仙道せんせいからこれを貰ってさ」
 そして、銀色に光る小さな鍵を目の前に出してみせる。
「宝の鍵だとか言われて、そのときは意味が分からなかったんだけど、やっぱりコレのことだったんだね」
 一人納得する那智に、真奈美は恐る恐る問いかけた。
「じゃ、じゃあ、もっと早くに外せたってこと……?」
「まぁ、そうなるね〜。でも、それじゃあ勿体ないじゃん?」
「な…っ」
 あっさり認めた上に、悪びれることもなくそんなことを付け加える那智に、真奈美は言葉を失った。
「だから、少しの間黙ってようと思ったんだけど、せんせいのその手首を見たら、なんだか申し訳なくなっちゃってさ」
 そう言って、真奈美の赤く痕のついた手首を指でなぞる。
「でも、色々抑えられなかったみたい」
「あ、あのねぇ!」
 顔を真っ赤にさせる真奈美を見て、那智は朗らかに笑った。
 そして、やっと真奈美から離れ、ベッドから起き上がる。
「せんせいは、まだそこにいてね?」
 そう言って、棚のある方に向かう那智を、真奈美は目で追った。
 何やら薬棚を物色しているようだったが、那智自身の背中に遮られているため、ベッドからはよく見えなかった。
 真奈美自身もベッドから立ち上がろうとしたが、腰が抜けてしまって、思うようにいかなかった。
「ほら、じっとしてて。じゃないと、またキスしちゃうよ?」
 無理に動こうとする真奈美を見て、那智はゆっくりとベッドに近づきながら、そう告げた。
 その言葉に、真奈美は身を強張らせ、ベッドに腰掛けながらも那智からあからさまに距離を置こうとする。
「せんせいのその反応、軽く傷つくなぁ」
「教師をからかうんじゃありません!」
「あはは、ごめんごめん」
 声を荒らげる真奈美に、悪びれもなく笑顔を返す。
 真奈美には、那智の真意が分からなかった。
「手、出して?」
「え?」
 右手を差し出されたが、意味が分からず真奈美は那智の顔を見上げた。
「手当てしてあげる。上條せんせいみたいなことはできないけど、少しは効果があるかもしれないし」
 そう言って、消毒液とガーゼを目の前に出すと、那智は真奈美にいつもと変わらぬ微笑みを向けた。





 裏っぽくなりかけましたが、管理人がチキンな所為で無理でした(笑)


 2009.2.24.up