2.距離


「よし、これで一段落ね」
 しんと静まった職員室に、Enterキーを軽快に押す音と真奈美の声が同時に響いた。
「終わったぁ〜」
 椅子の背にもたれ、腕と上半身を思いっきり伸ばす。
 同僚たちが帰ったあともPCの前で一人格闘を続けていた真奈美だったが、それもやっと一区切りついた。
 どれくらいの時間、職員室にこもっていただろう。
 窓の外を見るが、そこにはただ暗闇がどこまでも広がっているだけだった。
 仕事を終えた達成感よりも、自分でも自覚していなかった疲れが、その闇のように重たく押し寄せてくる。
 真奈美はそれを振り払うように、ふぅ〜と、一度深呼吸をした。
 電源を切る作業のためにPCに向き直ったとき、突然耳元に明るい声が届いた。
「せーんせい、仕事終わった?」
「わわ、那智君っ!?」
 いきなり背後から腕をまわされ、真奈美は間抜けな声を上げてしまう。
 その腕の主――方丈那智は、そんな彼女の様子を見てくすくすと楽しそうに笑った。
「ちょ、ちょっと放しなさい!」
「やだ〜」
 抗議の声とともに腕の中でもがくも、那智は一向にその力を弛めようとはしない。
「もう! っていうか、下校時間はとっくに過ぎてるでしょう!? なんでまだ学校にいるの! それに、いつから職員室に……きゃっ!」
 言い終わる前に、真奈美が小さく悲鳴を上げる。
 顔を赤らめながら立て続けに質問をする真奈美の頬に、那智が自分自身のそれを摺り寄せたのだ。
「学校に残ってたのは、せんせいを待ってたから。あと、ここには、ついさっき入ったよ」
 そう真奈美の耳元で囁く。耳にかかる息の擽ったさに、真奈美は身動ぎしようとするが、那智はそれさえも許さない。
「あのね、那智君! 私、これでも教師なのよ!? いきなり抱きついたりしないの!」
「せんせいはせんせいだよ〜。それにおれ、せんせいと二人きりになれるのずっと待ってたんだもん」
「二人きりって、同じ学校にいるんだから休み時間や放課後にだって会えるでしょ?」
「それは二人きりとは言わないよ〜。それにさ、こんなことみんなの前でしてもいいの?」
 そう言って、真奈美の顔を引き寄せると、那智は軽くキスをした。
「!」
 突然の不意打ちに、真奈美は一瞬身を硬直させる。
 そんな彼女の反応を楽しみながら、那智はもう一度顔を近づけようとしたが、今度は真奈美の両腕によって力一杯引き離された。
「“みんなの前で”とか、そういうことが問題じゃなくて、“こんなことをするのが”ダメなんです!」
 耳まで真っ赤にさせて言う彼女に、那智は口角を上げたまま「どうして?」と問うように首を傾げた。
「ねぇ、那智君。私が言ってること分かってくれてる? この間だって――」
 そう言い掛けて、真奈美は言葉を詰まらせると、思わず那智から視線を外した。
 数日前に起こった出来事が脳裏を過ぎる。
 そんな真奈美の様子を見て、那智は穏やかな表情のまま、その目を細めた。
 伸ばされた彼女の腕の先端、その両手首に巻かれた真っ白な包帯にそっと触れる。
「もう、痛みはない?」
 那智の問いに、顔を伏せながらも真奈美は小さく頷いた。
「う、うん。ただ、まだ痕が残ってるから…誰かに見られて心配されたくないし……」
 彼女の言うことも確かに一理あった。
 この学園にいる教職員や生徒たちには、世話焼きや過保護が多いのか、(若干例外もいるが)みな彼女に甘い。
 包帯をつけているだけでもとやかく言う者もいるのに、その下にある傷痕を見せたら、ほとんどの人間が血相をかえて、その原因となったものの排除にかかるに違いない。
 那智からして見れば、それはそれで面白いのだけれど、当の真奈美自身は他の者に迷惑を掛けることを嫌う。
 だから、彼女は黙っているのだろう。あの出来事のことも。
「ホント、仙道せんせいの悪戯には困ったものだよねぇ」
 包帯に触れる手を離すことなく、そう暢気に呟くと、真奈美は顔を上げ、キッと鋭い眼光で那智を睨んだ。
「でも、大部分は那智君が原因でしょ!!」
「あはは、そうだっけ?」
 那智は屈託のない微笑みを返し、真奈美の右手のみを引き寄せると、その甲に優しくキスを落とした。
「だから! 誰もいなくても学校でこんなことしちゃダメだって言ってるの! それに、私たちは教師と生徒で――」
「じゃあさ、ここ以外ならいい?」
「……え?」
 真奈美の言葉を遮り、那智は猶も問いかけた。
「学校以外の場所で、周りにおれたちのことを知る人がいなければ、一緒にいてくれる?」
 那智の手が真奈美の顔を包み、ゆっくりと自分の方へと引き寄せる。二人の距離は互いの息が掛かるほど間近になった。
 すぐ目の前にある彼の瞳には、戸惑いを隠せない真奈美自身の姿が映っていた。口元は微笑みつつも、その瞳の中に熱いものを秘めた那智を前にして、真奈美は視線を逸らすことができなった。
 見詰め合う二人の周囲に、静かな時間が流れる。
「な、那智君……?」
 至近距離に迫られたことによる緊張と普段見せない那智の真剣な眼差しに、真奈美の声は震えた。
 しかし対する那智は、そんな反応さえも楽しむように、目を細め、優しい手つきで彼女の柔らかな髪を梳く。
 そして、ゆっくりと囁いた。
「ねぇ、せんせい」
「な、なに?」
「せんせいの家に連れてって?」
「え、何を…んっ」
 那智に再び口を塞がれ、真奈美の声は静寂の中に溶けて消えた。


「そこで、この前のつづき、しよ?」





 どうしよう、那智の暴走が止まらない…!(汗)


 2009.2.13.up