1.自覚


 放課後、千聖はClassZの教室で担任の北森真奈美がやって来るのを待っていた。
 教室には千聖以外の生徒の姿はなく、心地よい静寂が彼自身を包んでいる。
 夕焼けが窓際に並ぶ机を朱色に染めるのを、千聖は穏やかな面持ちで眺めていた。

 千聖が担任を待つ理由は、彼女の指導――つまり補習を受けるためだった。
 面倒くさいと言いつつも、最近ではサボることなく補習に参加している。
 そんな彼を、親友たちはからかいながらも、温かく見守っていてくれていた。
 あれ程まで煩わしく思っていた授業をなぜ受ける気になったのか。その理由と自分自身の心情の変化に、千聖は気づかないふりをしていた。
「くぁぁ…遅いな」
 欠伸まじりに教室の時計を見やると、決められた時間はとうに過ぎていた。
 補習の時間に遅れるとは彼女にしては珍しい、と千聖は思った。
 むしろ、いつも遅刻するのは自分の方で、そんな千聖を彼女は咎めることなく笑顔で迎えてくれていた。
 何かあったのではと不思議に思い、職員室に向かおうと席を立ったそのとき、廊下からぱたぱたと駆けて来る足音がきこえた。
 その音はClassZの教室の前で止まり、それと同時にドアが開く。
「千聖君、遅れてごめんね!」
 現れたのは、千聖の待ち人だった。真奈美は少し頬を赤くして、千聖の元へ駆け寄る。
 職員室からここまで走ってきたのだろうか。
 聖帝学園の校舎はとてつもなく広い。その中を一生懸命駆ける彼女の姿を想像し、千聖は少しおかしくなった。
「さ、補習始めようか」
 真奈美に笑顔を向けられ、千聖は「ああ」と小さく答えると、
「でも、その前に息を整えろ」
 と付け足すように言った。その声は自分でも驚くほど穏やかだった。


 補習が始まると、今までとは異なる空気が自分を包んでいることに千聖は気づいた。
 真奈美が入って来たことで教室内が明るくなったように感じるのは、単なる錯覚ではないだろう。
 彼の好きな静寂は身を潜めてしまったが、別にそれが不快ではなかった。
 この明るい雰囲気さえも、今の千聖には心地よく感じられた。
 熱心に指導する真奈美と黙ってそれを聞く千聖。それは、いつも通りの風景――のはずだった。

 何気なく視線を移したとき、真奈美の首筋が千聖の目に留まった。
 あまり日に焼けていない彼女のそこには、赤い小さな痕が浮かんでいた。
「……お前、その首どうしたんだ?」
 不思議に思い、それに触れようとしたとき、真奈美は素早く千聖から離れた。
「えっ? 何が??」
 そう問いつつも、真奈美の左手はしっかりと自分の首筋を押さえている。その手首に包帯が巻かれていることも千聖は見逃さなかった。
「“何が?”じゃない。…怪我か? それにその包帯もどうした?」
 真奈美の腕を掴もうとしたが、彼女はそれを避け、慌てて席を立ってしまう。
「ううん、大したことじゃないの。手首も大丈夫だし。首も、まだ何か残ってるなら、心配掛けてごめんね。本当に気にしないで」
 右手を振り、平気平気と言ってみせるが、彼女の態度は何かおかしかった。それに右手首にも同じような包帯が巻かれている。
 千聖の中の懐疑心が一層膨らんだ。
「それなら…なんで俺から離れる?」
「え? そんなこと……」
 千聖も堪らず席を立ち、真奈美に一歩近づいた。
「ねぇ。どうしたの、千聖君」
 後退りながら真奈美は問うが、千聖は答えなかった。黙ったまま、ゆっくりとしかし着実に真奈美との距離を縮める。
 とうとう壁際まで追い詰められ、真奈美は身を強張らせた。
 その、まるで怯えるような表情に千聖の心がちくりと痛んだ。だが、それ以上に目の前の彼女を放ってはおけなかった。
「お前、何を隠してる?」
 今度は千聖が問うたが、それに真奈美は答えることなく、ただ身を小さくするだけだった。
 ――俺はこんなことをしたい訳じゃない。
「くそっ」
 千聖の苛立ちが頂点に達しそうになる直前、
「あれ〜何やってるの?」
 教室に二人以外の声が響いた。千聖が声の方に視線をやると、そこにはP2の片割れ、方丈那智の姿があった。
 目を細め、いつものように穏やかな笑みを浮かべている。
「ごめんね〜、“勉強”の邪魔した?」
 そんな暢気なことを口にしながら、那智は悠々と二人に近づく。
 千聖は真奈美から身を引き、近づいてくる那智に目をやった。鋭く睨み、声を低くして問う。
「何の用だ?」
「“何の用”って、補習の様子を見に来たんだよ。不破っちょが真奈美せんせいを困らせてないかなって」
 そう言って、二人を交互に見やる。
「ま、案の定困らせてたみたいだけど」
「何だと?」
 那智のひと言に千聖は眉をしかめた。声も一段と低くなる。
「だって、せんせいの顔見てみなよ〜。怯えちゃってるじゃん?」
「俺はこいつの様子がおかしいから、その訳を問い質していただけだ」
「ふーん、そうなんだ?」
 那智は目を細め、真奈美に視線を向けた。一瞬彼女の身が震えたような気がした。
「どしたの? 真奈美せんせい」
「…え、あの……」
 顔を伏せ、言葉を詰まらせる真奈美に、那智はそれ以上追及しようとはしなかった。
 今度は千聖を見やり、得意げに言い放つ。
「ん〜せんせいが変な理由、おれ知ってるかも」
「は?」
「な、那智君!」
 那智の言葉の意味を解せず怪訝な表情を浮かべる千聖とは対照的に、真奈美は慌てた様子を見せた。
 そんな彼女の反応にもまた千聖は驚きを隠せない。
「教えてほしい?」
「や、やめて!」
 微笑みかけてくる那智と自分が詰め寄ったとき以上に狼狽する真奈美を見て、千聖は言葉を無くしていた。
 重い空気が三人を包む。

 キーンコーン……
   カーンコーン……

 そのとき、下校時間を報せる鐘が鳴った。それは同時に補習時間の終わりも意味する。
「あれ、時間になっちゃったね〜。おれたちも帰らなきゃ」
 静寂を破ったのは、那智の暢気な声だった。
「せんせいも帰る? それなら、送ってくよ?」
「え? ううん、ごめんなさい。まだ残ってやることがあるから……」
「そう? 外もだいぶ暗くなってきたし、あまり無理しないでね?」
 首を振る真奈美に、やはり那智はそれ以上引き止めることもなく、そう告げた。
 彼の言う通り、もう既に日は落ちたようで、窓の外では夕闇が周囲を包み始めていた。
 那智の言葉に、真奈美は少し戸惑いの表情を見せつつも、素直に「ありがとう」と返した。そして、今度は千聖に視線を移す。
「千聖君、ごめんね。明日は遅刻しないようにするし、ちゃんと補習もやるから」
「…ああ」
 慌てた様子で机に広げた教材を片付け、息もつかずに言う真奈美に、千聖はそう答えることしかできなかった。
 最後に二人に目を向け、軽く一礼すると、真奈美は教室を後にした。また廊下に彼女の掛ける足音が響く。それもだんだんと小さくなっていった。
「またね〜」
 明らかにワンテンポ遅れながらも、那智は真奈美が消えた方向に手を振った。千聖は黙って、その方向に目を向けていた。
 そして、遠くに響く足音さえも消えたとき、教室には二つの影が残った。


「お前……あの人に何をした?」
「ん〜、なんのこと?」
 この静寂を先に破ったのは、千聖だった。那智を睨めつけるが、当の本人は動じる素振りさえ見せない。
「とぼけるな。あの態度を見て気づくなと言う方がおかしい」
「へぇ……不破っちょって他人には興味がないと思ってたよ」
 そう穏やかに告げるも、那智の目は先刻よりも鋭い光を宿していた。
「でも、言わない」
「なに?」
「おれが知ってることだけが真実じゃないかもしれないし、せんせいにも“やめて”って言われたからね。おれからは何も言わないよ」
 どう見ても元凶が何を言う!?と声を荒らげたくもなったが、千聖はその衝動を抑えた。
「気になるかもしれないけど、不破っちょは知らなくていいんじゃない? せんせいから相談でもされない限りは、ね」
 そう言って、那智は口角をゆっくりと上げた。
「くっ」
 軽く舌打ち、千聖は那智から視線を外した。
 癇に障る物言いだが、那智の言うことも尤もなのだと思う。
 先刻問い詰めたときに、彼女は口を割らなかった。それが今の彼女の“答え”なのだろう。
 自分が彼女に求められなかったこと。そして、目の前の青年と彼女が自分の知らない秘密を共有していること。
 その事実に、苛立ちを隠せず、ただ感情に任せて動こうとする自分は精神的にもまだまだ未熟なのだと改めて自覚した。
「せんせいもいないし、おれはもう帰るけど、一緒にどう?」
「ふん、断る」
 猶も悠然とした態度を崩さない那智に、千聖は無愛想に答えた。
「そう? じゃあ、またね〜」
 那智は特に気にすることもなく、ClassZの教室を後にした。軽い足取りが千聖の耳にまで届く。


「くそっ」
 千聖はもう一度軽く舌打ちすると、傍にあった机に拳を落とした。
 ガァン…と教室に無機質な音が虚しく響く。
 今まで気づかないふりをしてきた自分自身の変化に、そろそろ目を向けるときが来たのだと千聖は静かに悟った。





 まずは、捏造甚だしくてすみません!(土下座)
 でも、ここまで読んでくださった方はありがとうございました。


 2009.2.10.up