*if you catch a cold / 桐丘 「参ったな…」 「どうなさったんですか、桐丘先生」 デスクの前で頭を抱え、深くため息をつく桐丘に、近くを通りかかった真奈美が声を掛ける。 彼女の問いに、振り向いた桐丘が深刻そうな面持ちで答えた。 「いや、亮が熱を出したらしくてね、今家から連絡があった」 「ええっ、それは一大事じゃないですか! 残業なら私がやっておきますから、亮君たちのためにも早くお家に帰ってあげてください」 「ありがとう。だが、これから緊急の主任会議が入っているんだ。息子のためには早く帰りたいが、そうもいかない」 「……でも」 「話を聞く限り、病状としてはそれほど重くないんだよ。薬を飲んで安静にするように勧めたし、きっと大丈夫だろう」 そうは言うが、桐丘の表情は決して楽観視しているようには見えなかった。彼だって、今すぐに息子の元に帰りたいはずなのに、自分を押し殺し、職務を全うしようとしている。その姿は、毅然としているようにも見えるが、真奈美にはどこか痛々しくも感じられた。 桐丘先生と亮君。そして、亮君を不安げに見守っているであろう大君。 彼らのために、自分ができることはないだろうか。 下唇を噛み締めた真奈美の脳裏に一つの考えが浮かんだ。 「あの……もし、ご迷惑じゃなければ、私が先生のお宅に伺いましょうか?」 「え?」 真奈美の言葉に、予想外とばかりに桐丘は彼女を見返す。その瞳には真剣さが見て取れ、彼女が冗談で言い出したのではないことは桐丘もすぐに理解できたが、彼女の真意は分からなかった。 そんな桐丘の疑問を知ってか知らずか、真奈美は言葉を続ける。 「私にも料理の用意くらいならできると思うんです。本当は私が桐丘先生の代わりに会議に出席できればいいんですけど、それはやっぱり無理なので……」 「いや、僕としては大変有難いんだが……その、君こそ迷惑じゃないのかい?」 「そんな、亮君が熱を出しているって聞いて、何もしないでいることの方が耐えられませんよ。少しでもいいんです、何かお手伝いさせてください」 力一杯答える真奈美の熱意に、とうとう桐丘も折れた。彼としても、彼女からの申し出がとても有難かったのも事実で。 「それじゃあ、すまないけど、息子たちに夕飯を食べさせておいてもらえないかな?」 「はい、分かりました」 「僕の家の行き方は――」 「あ、大丈夫です。私、道を覚えるのは得意な方なんですよ」 そう笑顔で肯く真奈美。息子たちにせがまれ、夏休みに一度彼女を自宅に招待したことを桐丘は思い出し、「そうだったね」と答えた。 そして、改めて真奈美に視線を向ける。 「助かったよ、北森先生」 「い、いえ、私が勝手に言い出したことですし…」 「そんなことはないよ、本当に有難いと思ってる」 「それなら…良かったです」 目を細める真奈美に、自分たちのことをこんなにも親身になって考えてくれたんだと思い、桐丘は胸が熱くなった。 彼女の優しさは、決して生徒だけに向けれられるものではないのだと、とうの昔に気付いていたはずの事実を再び思い知る。 「息子たちには僕から連絡しておくよ」 「宜しくお願いします」 大好きな“お姉ちゃん”の訪問に、息子たちが喜ぶ顔が目に浮かんだ。亮にとっては一番の解熱剤になるかもしれない、などと彼女の笑顔を見て思う。 「――ああ、そうだ、これを渡しておこう」 呼び鈴を鳴らせば、息子たちが扉を開けるだろうとは思ったが、二人とも眠ってしまう可能性も想定し、桐丘はバッグから自宅の鍵を取り出して、真奈美に手渡した。 それを受け取った彼女の視線は、自然と鍵の隣についた付属品に向けられて、思わず顔を綻ばせる。 「あ、クマのストラップだ。可愛いですね」 「息子たちからのプレゼントでね」 三十路の男が持つには恥ずかしい代物だけど、と言いながらも桐丘の瞳には、どこか優しい色が帯びていて。 「桐丘サーン、そろそろ会議始まるぜー」 遠くからの加賀美の呼びかけに、和んだ空気を通常のものに戻す。 「……では、すまないが。息子たちのこと、宜しく頼むよ」 「はい、任せてください」 そう答えて、急ぎ足で自分のデスクに向かう真奈美の背を桐丘は見送った後、今度は自身のデスクに置かれた会議資料に視線を移した。 「さて、僕も行くか」 まずは亮たちに電話をしなくては、と頭の隅で確認してから、目の前の資料を手にする。 そして、数時間後、自宅に戻ったときのことを何気なく考える。 『おかえりさない』 そんなことを言いながら、彼女が息子たちと共に迎えてくれる姿を脳裏に浮かべ、桐丘は弛んだ口元をそっと指で押さえた。 亮君の風邪はすぐに完治するものだと思ってください〜。 息子が大変なときに、ほのぼのしている二人ってのもなんか申し訳ないので(汗) 2009.6.15.up |