*if you catch a cold / 上條 「失礼します」 軽くノックをし、ひと言声を掛けてからドアに手を掛ける。 部屋を覗いた瞬間、ひんやりとした空気と消毒薬が持つ独特のにおいが真奈美の鼻を擽った。けれど、いつも腰掛けているはずの椅子には、主の姿はなく。 席を外してらっしゃるのかな、と首を傾げたとき、スプリングの軋む音が僅かに耳に届いた。 「……北森先生ですか?」 その問いかけに、「はい」と答え、ゆっくり室内へと足を進めると、カーテンに仕切られた奥にあるベッドに腰をおろす上條の姿が真奈美の目に入った。 「お恥ずかしいところを見られてしまいましたね」 そう言って、上條は前髪を掻きながら苦笑いを浮かべるも、眼鏡の奥の瞳はどこか虚ろで。 「あの、具合が宜しくないんですか?」 「いえ、少し横になっていましたが、もう大丈夫ですよ」 と、訊ねる真奈美に、平然とした態度で答える。 「少々無理が祟ったのかもしれません、医者の不養生ですね」 そう付け加えた後、また笑顔を向けられるも、その奥に真実を隠しているように真奈美には思えた。 それは決して彼を疑っているのではなく、上條という男の性分を知っているからこそで。 「――で、北森先生はどうしてこちらに?」 けれど、対する上條は、頑なにその姿勢を崩そうとしなかった。 真奈美に訪問の理由を訊ね、その答えを得ることで自分の体裁を取り繕うとする。 「あ、あの、この資料をお渡しするつもりだったんです」 「ああ、進路調査票ですね。ありがとうございます」 彼の役職の一つである教務主任という役目を全うするため、真奈美から手渡されたプリントの束にざっと目を通す。 けれど、途中何度も眼鏡のブリッジを上げて、目頭を押さえる上條の仕草に、やはり体調が優れないのではと真奈美は訝しんだ。 「あの…ショウガ湯を作ってきましょうか?」 「え?」 真奈美から唐突に掛けられた言葉に、さすがの上條もその動きを止めた。 「そ、その、保健室って少し冷えますよね。ショウガ湯を飲むとすごく身体が温まるんですよ、だからいかがかなって」 彼が口を挟む隙を与えないようにと、真奈美は息をつかずに言葉を並べる。 「ちょうど今日、桐丘先生から生姜をいただいたので、家庭科室を使えばすぐ作れると思うんです。だから、その……」 こう言っている間も、上條とは視線を交えたままだったのだが、変わらぬ彼の表情に、だんだんと真奈美の語調を勢いを失ってゆき。なんだか自分の行動が恥ずかしくなって、思わず顔を伏せてしまった。 余計なことを言っちゃったかな、と後悔の念が彼女の心を満たそうとしたとき、室内にくすくすと上條の笑い声が響いた。 「ふふ、私を心配してくださっているんですね。ありがとうございます」 「……あ、あの」 「北森先生の好意を無下にはできません、ぜひ頂くとしましょうか」 そう言って、眼鏡の奥の瞳を細める。その表情には、先ほどまで彼を取り繕っていた複数の仮面の影は一切なくて。 「はい! 早速作って来ますね!」 それに応えるように、真奈美も笑顔を向けた。 けれど、ドアノブに手を掛け、退室しようとしたとき、「あっ」と何かを思い出したかのように立ち止まり、真奈美は上條に告げた。 「でも、この間、千聖君がクマ君に飲ませて、ちょっと大変なことにっちゃったので、ここで飲むのはやめた方がいいかもしれませんね」 彼女の言葉に、上條も以前ガナッシュが異常に鼻をむず痒がらせていたことを思い出す。敏感な嗅覚を持つ動物たちには、どうも生姜のにおいは刺激が強すぎるらしい。 けれど、 「この部屋で構いませんよ。クマたちには後で私から謝っておきます」 上條は真奈美にそう答えた。僅かに被った仮面を彼女に悟られないように、細心の注意を払いながら。 「分かりました。それでは宜しくお願いします」 律儀に頭を下げてから部屋を後にする彼女を、柔らかな微笑みを浮かべながら見送る。 どうやら一瞬の変化は感知されなかったらしい、と彼女が去ったことを確認した後、上條はほっと胸を撫で下ろした。 「……可愛いクマたちには申し訳ないのですが、私の我侭を少しだけきいて貰いましょうか」 ひとときでもいいから彼女を独占したい。何者にも邪魔されず、与えられた僅かな時間を二人きりで過ごしたい。 そんな願いを心のうちに秘め、上條は静かになった保健室で真奈美が戻ってくるのを待った。 上條は黒い…というよりは本心をあまり表に出さないというイメージが強いです。 裏ルート、5章前後…辺りのお話と思っていただければと思います(く、苦しい) 2009.6.13.up |