*if you catch a cold / 天童 その日、天童は一人職員室に残り、雑務をこなしていた。 先ほどから一向に減る様子を見せない資料の山が、ちらちらと嫌でも視界に入ってきて、気分が滅入る。 普段ならば簡単に片付けてしまえる作業に数倍もの時間を要しているのは、午後から急に自分を襲った頭の痛みに因るものかもしれないと、それらにも目を通しながら天童は思った。 不調のときに動いても効率が悪いだけだということは重々承知していたが、中には明日までに提出しなければならないものもあるため、多少無理をしてでも今日中に終わらせてしまいたかった。そのため、『早く帰宅して休む』などの選択肢が浮かぶことはなく、気だるさにため息をつきつつも天童は作業に没頭していた。 「あ、天童先生、お疲れさまです」 デスクに積まれた紙の山が大分なだらかな形状になってきた頃、静寂に包まれた職員室内に突然鈴のような声が響いた。聴き慣れたそれに誘われるように顔を上げると、視線の先には予想通りの姿があって、天童は無意識に唇の端を上げる。 「お疲れさまです、北森先生。A4の補習は終わりましたか?」 「はい! とりあえず目標のところまでは進みましたし、今日は早めに解散しました」 真奈美の『早め』という言葉が引っかかり、天童は腕時計に視線を落とす。室内が普段よりも薄暗く感じられるため、下校時間を当に迎えたものとばかり思っていたが、時計の針が示す時刻はそれ程遅いものではなかった。 「早くに解散とは珍しいですね。先生に何か御用事でも?」 「いえ、――」 訊ねる天童に真奈美が首を振って答えかけたとき、室内がまるで照明が落ちたかのように暗くなった。一瞬停電かと錯覚したが、その直後耳に届いた大量の水滴が窓に激しく叩きつけられる音に、天童は状況を把握した。 「……なるほど、そういうことですか」 「はい。傘は持ってるみたいでしたが、生徒たちには一応早めに帰ってもらったんです」 みんな大丈夫かな、と呟く声に、窓に向けていた視線を彼女に戻す。 「北森先生も傘はお持ちですよね?」 「はい、予報で知っていたのでばっちりですよ」 「ならば心配はいりませんね」 そう言いつつも、天童は内心では少し残念に思っていた。もし彼女が傘を持っていなかったら、それを口実に一緒に帰ることもできただろうに、とやや不謹慎な考えが脳裏をかすめる。 「ただ……」 ぽつり、と何かを言いかけて、真奈美はその口を噤んだ。 彼女の視線は、窓の外に向けられているようで。天童も再びそちらに目を移す。 「ただ?」 穏やかな口調で促すと、彼女は躊躇いがちに言葉を続けた。 「……もう少し、雨がおさまるのを待ちます」 真奈美の声に震えるものを感じたその刹那、銃弾のように雨粒が撃ちつけられているガラス窓の先、遠く彼方に何か光るものが見えた気がして、天童は目を凝らした。 雨、光、恐怖。 それらの単語が、天童の中で一つの結論へと到達する。 「――北森先生は雷が苦手なんですね?」 「えっ……ど、どうして分かったんですか?」 「曖昧な回答で申し訳ありませんが、なんとなくそう思いました」 「うう、…恥ずかしいんですけど、おっしゃる通りなんです。……その…お、音が怖くて、きゃっ!」 窓の外から響く破裂音にも近いそれに、彼女の言いかけた言葉が小さな悲鳴に変わる。今度の雷はどうやら近くに落ちたらしい、と身を縮める真奈美に視線を向けつつも天童は冷静に分析していた。 「す、すみません、子どもみたいで」 「いいえ、むしろ――」 そんな貴女の姿も可愛らしい、と怯える彼女に告げるのは、なんだか悪い気がして、天童は咄嗟に語尾を濁す。 「北森先生が残られるのでしたら、私もお付き合いしましょう」 「え、でも、天童先生を巻き込んでしまうのは悪いですよ!」 「いえ、こちらの作業もまだ続けようと思っていましたからね。貴女が気にすることはありません」 そう言って、デスクの上に重ねられた資料を真奈美に見せる。目下片付けなくてはならないものの整理は先刻終わらせたばかりだが、それでも残っているものが多数あるのだ。その量にはやはり気が滅入るものがあるが、彼女が戻ってきてからは、不思議と意欲が湧いてきている自分がいて。 それに、場所にしても、外の天候にしても色気は全くないのだが、真奈美と二人きりでいられるという状況には変わりない訳で。 「ありがとうございます」 少し安堵した面持ちで笑顔を向ける彼女に、こちらこそと天童は心の中で呟いた。 「私のことも怖れないでくださいね」 「え?」 「いや、何でもありません。雷などすぐおさまるでしょうから、ご安心なさい」 無意識に出た言葉を、彼女に悟られないように誤魔化す。 『怖れないで』などと自分で言っていて、おかしくなった。身体につられて、どうやら心まで弱くなってしまったらしい、と天童は自嘲めいた笑みを零す。 けれど、 「はい! それに天童先生が一緒にいてくださるなら心強いです」 そう言って、真奈美は屈託のない笑顔を向けた。おそらく、それは彼女の本心からくる言葉で。そんな素直さを眩しいと感じつつも、それでも目の逸らすことのできない自分がいることに気付く。 離れることなどできるはずもない。 今も、そして願わくば未来でも。 「私は傍におりますよ。……貴女が望む限り、永遠に」 未だ窓を叩く雨音に掻き消されるほどの小さな声で、だが確かに天童は目の前の女神に誓いを立てたのだった。 ジャケットプレイもナルシー発言もない天童ですみません。 でも、雷と言えば天童なイメージが強いです。なんせ召喚できますし(笑) 雷に怯える真奈美と、それを見てちょっと気弱になる天童さんを書きたかったんです。…これでも(汗) 2009.6.21.up |