*if you catch a cold / アラタ


 彼女の部屋の鍵を慣れた手つきで開錠する。扉を開けると、玄関にはオレを迎えてくれるひとがいなくて。
 中に入り、薄暗い部屋を見回す。
 奇妙にさえ感じる静けさに、オレの中で眠っていた焦燥感がふつふつと溢れ出し。
 足早にベッドへと近づくと、目に映ったのは横になる彼女だった。
 目蓋を下ろし、ぴくりとも動かない。少なくとも、そのときのオレにはそう見えて。
 彼女の蒼白な顔色に一瞬恐怖を覚える。
 視界がぐらつき、オレは力なくその場に膝を付いた。
 情けない、と。
 自嘲を込めて笑うが、喉の奥からかすれて出たそれは声にもならず。ただ、虚空に消えた。
 彼女の元にゆっくりと向かい、腕を伸ばし、まずその柔らかな髪を撫でる。
 ひやり。
 この表現が正しいのかは分からないけれど、それにはオレの求める温さなどは無く。
 いつもは愛しく感じられた感触なのに。抑えきれない動揺に僅かに手が震える。
 視線を少しだけ移すと、目に入るのは赤みのない彼女の肌。
 その肌に触れることが怖くて堪らない。
 また求めるものを否定され、拒絶されてしまうんじゃないかと。
 恐れがオレを支配する。

 あの人を亡くしたとき、オレはまだガキだったから、その状況を簡単には受け入れられなくて。
 目を伏せ、動かなくなったあの人を前にしても、
 悪夢は所詮目覚めたら消えるものだと、明日になればきっと笑いかけてくれるだろうと淡くて甘い期待を胸に抱いていた。
 けれど、何気なく、いつもしていたようにあの人の胸に頬を摺り寄せたとき、
 あの心地よい音が耳に届かなかったとき、
 オレは絶望を知った。
 まさに耳を疑う思いだったけれど、
 それこそが真実で――。

 そんな過去を思い出し、
 恐る恐る 胸元に耳をあてると、

 トクン、トクン

 微かに届く貴女の鼓動。そして、同時に伝わる体温。
 ああ、貴女は生きている。
 安堵にも似たため息が漏れたとき、オレは自分が呼吸さえ忘れて耳を澄ましていたことに気付いた。
 単なる貧血による症状なのだから、大事に至ることなどないことは分かりきっていたはずなのに。
 今日は会えないかもしれない、と電話越しにすまなそうに告げる彼女に、安静にするよう勧めたのは他ならぬこのオレなのに。
 突然の別れと錯覚してしまう自分の弱さを改めて思い知る。

 図体は大きくなったのに、心はあのときのままだと遠い空にいるアナタは笑うかな?
 自嘲気味に喉を鳴らし、脳裏に浮かぶ最愛だったあの人に問いかける。
 けれど、もちろん答えなんか返ってこなくて。
 まぁ、笑われても叱られても泣かれても、オレは別に構わない。
 目の前にいる彼女は、こんなオレでさえ受け止めてくれるから。
 優しく包み込んで、たまに頭を撫でて「大丈夫だよ」と言ってくれるから。

 もう一度、髪に触れるとそれはやはり柔らかくて。
 熱を感じることはできないけれど、その感触はやはり心地よくて。
 彼女の胸に顔を埋めると、届くのは変わらぬ鼓動と体温。
 そう、貴女は生きている。
 それだけが、今オレの中にある真実。

 眠りの妨げにはなりたくないけれど、
 早く貴女に愛されたい、貴女を愛したい、と切に思う。

 ねぇ、眠り姫。
 貴女が次に目覚めたとき、オレはどんな顔をして迎えたらいい?
 どんな言葉を掛けたら、貴女は喜ぶだろう?
 貴女が望むことならなんだってしてあげる。なんだって叶えてあげる。
 貴女がオレの夢であるように、オレは貴女の夢なのだから。
 だけど、もしも我侭を言っていいのならば、
 最初に黙って貴女を抱きしめることを許してくれますか。





 あれ、これ風邪ネタじゃなくね?(汗)
 しかも、暗くて申し訳ないです。


 2009.5.8.up