*秋、胸に刺さる


 放課後、A4の補習のため、彼らの待つアホサイユへと向かう道のり。
 大量のテキストを持ちながらも、真奈美は足早に歩を進めていた。後から考えると、もう少し前方…というか足元に注意を払っておけば良かったと思う。
 目的地である御殿の屋根が僅かに見え始め、ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、突如視界が暗転し、真奈美の思考は一瞬停止した。足場を失ったことに気付いたときには、重力に任せ身体が降下していて、その直後腹部と腰、双方に衝撃と鈍痛が走った。
「っつぅ……」
 尻餅をつくような格好のまま、打った腰を擦る。周りを見渡すと、仄暗いものの散在したテキストの山が確認できた。おそらく、腹部に当たった衝撃はこれらが原因であろう。
 光を求めて頭上を見上げると、空がいつもより遠いこと、そして周囲にそこはかとなく漂う土臭さに、真奈美はやっと自分が置かれた状況を理解した。
 大量のテキストに埋もれ、スーツは土だらけ。腰も少しだけ痛む。
 そんな自分が情けなくて、思わず溜め息が漏れた。
「な〜ンだぁ? オメェが落ちたのかよォ、クシャ」
 頭上から発せられた声に反応し、再び空を仰ぐと、穴の入り口から覗かれたのは、間違いなく“これ”を仕掛けた張本人の不敵な笑み。
「仙道先生っ! 何てことをしてくれるんですか!」
 目を吊り上げて訴えても、相手は悪びれる様子もなく。
「キシシッ、マジでアッホじゃねぇ〜の?」
「アホで結構です! これから補習なので、早くここから出してくださいっ!」
「ハァ? オレ様はまだまだ遊び足りないってぇの! 飽きたら出してやっから、大人しく待ってやがれヨォ?」
「えっ、ちょ、ちょっと! 出してくださいってば!」
「じゃ〜ナァ〜?」
 そう言って適当に手を振ると、清春の姿は穴の入り口から消えてしまった。だんだんと遠ざかる影と足音に、猶も声を掛け続けるも、結局は聞き入れられることはなく。
 ふと耳を澄ませてみると、木の葉のそよぐ音だけが鼓膜に届くのみで。その事実に、真奈美は力なく項垂れた。
 ……けれど、すぐに諦めるのは彼女ではない。
 清春の制止は失敗したけれど、ここから脱出ことまで諦める気にはならなかった。
 ゆっくりと腰を上げ、ふらつきつつも立ち上がる。
「よしっ!」
 少しだけ意気込んでから、遠くなった空を仰ぎ、背筋を伸ばした。
 爪先立ちになり、天に向けて腕を伸ばしてみるが、指先すら穴の口に届かない。
 周囲を見渡しても、足場になりそうなものはなく、どうやら自力で抜け出すのは、やはり困難なようで。
 それならば、と大きく息を吸い、
「誰かー! 助けてくださいー!」
 力の限り、穴の外に向かって叫んだ。
 たとえ放課後といえども、誰か一人くらいはこの声に気付いてくれるのではないか。
 もしかしたら、約束の時間になってもアホサイユを訪れない自分を不思議に思い、A4もしくはP2が捜しに来るかもしれない。
 一縷の望みだって捨てられない。そう思って、真奈美は声を出し続けた。


「北森ですー! 誰か助けてくださいー」
 どれくらいの時間、そうしていただろう。
 実際は数十分しか経っていないはずなのに、真奈美にはそれの何倍の長さにも感じられた。
 新たに人が現れることもなく、必死に上げる声だけが空洞に響く。
 状況の変化はないけれど、喉の奥が少しだけ痛くなって、声もだんだんと通らなくなってゆき。
 ため息を飲み込み、真奈美は土の壁にそっと額を預けた。
 瞼を閉じ、次こそは、と自分に言い聞かせたとき、
「クケーッ!」
 人ならざるものの声が頭上に反響し、直後脳天に何かが落ちてきた感触が伝わった。
「……へ?」
 なんだろうと思って、自分の頭に手を乗せると、ひやりと冷たいものが指先に触れた。
「くけ〜くけくけ〜」
 次に聴こえた声に疑問が確信に変わる。
「もしかして、トゲー?」
 訊ねると、それに応えるようにまた鳴き声が響いた。
 甲に彼が乗ったことを確認し、胸の前に手を移すと、そこにはやはり白いトカゲの姿があって。安堵のために思わず頬が綻んだが、けれどそれも一瞬で、
「でも、どうしてこんなところに?」
「とげ〜!」
「トゲーが一人でいたら、斑目先生が心配するんじゃ…?」
 いつも瑞希の傍にいる印象が強いため、思わず訊ねてしまったが、それはつまりトゲーの傍には常に瑞希がいることに等しく。
「……北森先生?」
 静かだけれど澄んだその声に反応して上を仰ぐと、甲の上に乗っている彼の一番の親友が真奈美たちを見下ろしていた。


 瑞希の手を借り、なんとか落とし穴から脱出を果たした真奈美が深々と頭を下げる。
「ありがとうございます…、斑目先生」
「お礼なら、トゲーに言って」
 最初に発見してくれたのは彼だから、と付け加え、瑞希は肩にいる相棒に視線を向けた。
「トゲーも本当にありがとう」
「クッケー!」
 まるで、どういたしまして、と応えてくれるように鳴かれ、少しだけ意思の疎通ができた気がして嬉しくなる。
「……北森先生はこれから補習?」
「はい、そのつもりだったんですけど……」
 そう言いながら、アホサイユを横目に見る。
 だいぶ遅れてしまったのだ。生徒たちはもう帰ってしまったかもしれない、そんな不安が脳裏を過ぎったとき、
「……大丈夫だよ」
 瑞希の落ち着いた声が、真奈美の耳に届いた。
「えっ?」
「一と風門寺に任せてあるから」
 全てを知っているかのような彼の口ぶりに、
「……あの、また顔に出てましたか?」
 と訊ねると、うん、と即答される。
 それは、何度も瑞希に指摘されていたことで。気をつけなきゃと、真奈美は胸の内で小さく反省する。
「ううっ、すみません。でも、ありがとうございます」
「いいんだよ、僕たちは。それよりも――」
「それよりも……?」
 反復するように訊ねると、瑞希の切れ長の目が真奈美の全身を捉える。
「……その格好をどうにかするのが先決」
 瑞希に言われ、改めて視線を向けると、土だらけになり色の変わったスーツが目に入る。おそらく背面も同様か、それ以上のことになっているに違いない。
「そうですね、さすがにこれでは皆に驚かれちゃいますし、代わりの服がロッカーにあるので一度戻って着替えることにします」
「……顔にも土が付いてる」
「ええっ!?」
 頬に触れようとして、その手さえも土で汚れていることに気付く。
「洗うの、忘れないようにね?」
「……はい、そうします」
 一度頷き、落とし穴から助け出されたとき同時に救出したテキストの山に目をやる。勿論、それらももれなく汚れていて。
「そっちは僕も拭くのを手伝うよ」
「……本当にありがとうございます」
 また顔に出てしまったのだろうか、と思いつつも、素直にお願いすることにした。人数が多い方が効率も良い。
「じゃあ、運んでしまおうか」
 そう言って、テキストを拾い上げる瑞希に、真奈美は慌てて近寄った。
「そんなことをしたら斑目先生の服が汚れてちゃいますよ! 私が全部持って行きますから!」
 けれど、瑞希はそれを聞き入れず、ほとんどのテキストを手の中におさめてしまう。
「ほら、行くよ。先生」
「あ、あの…!」
「くけ〜!」
「トゲーも急げって言ってる」
「うう、すみません……」
 結局、大半のテキストを瑞希に奪われ、真奈美はなんだか申し訳なくなった。


「そういえば、放課後まで斑目先生がいらっしゃるなんて珍しいですね。何かなさっていたんですか?」
 校舎へと戻る道すがら、ふと気になったことを隣で歩く瑞希に訊ねる。
「……ん、清春のトラップ駆除」
「トラップってさっきの落とし穴、とか…ですか?」
「うん、今日はあの辺りを狙う気がしてたから、トゲーと廻ってた」
「……凄い」
 彼が自分を見つけ出してくれたことは偶然ではなく、必然だったことを知り、真奈美は無意識に感嘆の声を漏らした。
「でも、どうして急に…?」
「被害を最小限に抑えるため、かな。文化祭が終わった直後の今は、皆少し浮ついていて罠や悪戯に引っかかりやすくなってるからね。清春自身もそれを予測して、いつも以上にたくさんの罠を仕掛けてる」
「そ、そうだったんですか」
「北森先生もいつもは引っかからないのに、今回は落ちちゃったね」
「……はい、普段ならもう少し注意しているはずなんですけど」
「……浮ついているのは、生徒だけじゃないのかも」
 その言葉がちくりと胸に突き刺さる。それはたぶん真奈美自身にも思い当たる節があるから。
 文化祭のクラス出展が思いのほか上手くいき、ClassZがやっと纏まりだしたように思えて、それが終わった今でも落ち着きを取り戻していなかったのではないか、と。
「そう、……かもしれません。少し反省しました」
「気付いたのなら、大丈夫。後ろばかりを向いていると、生徒まで不安になるよ」
「……はい」
 少しの間、沈黙が二人を包んだが、静かな声がそれを破る。
「……ねぇ、北森先生」
「はい」
「たまにはこうやって、空を見るのもいいかもしれない」
「空を、ですか?」
 立ち止まり、視線を上げる瑞希につられ、真奈美も同様に仰ぎ見た。
 そこにあるのは、さきほどまで少し遠くに見えた青景色。広がるのは、一面に澄んだ色。
「うん、少しだけ心が落ち着くよ」
 瑞希の言葉通り、すーっと胸の奥の痛みが和らいだような気がした。心もなんだか軽くなっていく。
「……生徒たちにとっては、これからが大事な時期だからね」
「はい、私も気を引き締め直します。そして、みんなと一緒に前に進んでみせます」
「そうだね、北森先生ならきっと――」
「おっ、なんだァ〜、マダラが出しちまったのかヨ?」
 突然背後からの声が、瑞希の言葉を遮る。視線を向けた先にいたのは、
「仙道先――」
「くらえっ!!」

 プシューッ!!

「わっ!」
 名を呼んだ瞬間、顔面に勢い良く水が掛かり、真奈美は悲鳴を上げた。
「ケケケッ! ア〜ホ面ァ〜!」
 その様子に、水鉄砲を構えたままの清春が愉快そうに笑う。
「ひどいです、仙道先生っ!」
「……そんなこともないよ」
「え?」
 突然の攻撃に抗議しようとする真奈美を瑞希が冷静に制す。
「少なくとも、顔の土は落ちた」
 そう言って、口の端をゆっくりと上げてみせる。肩の上に乗っているトゲーも、それを肯定するように鳴いた。
「テメッ、余計なことは言うなっ!」
「……僕はありのままを言っただけ」
「くけけ〜」
「チッ」
「……あ、あの、ありがとうございました」
 先ほどのことも含め、責めるべきかと悩んだが、真奈美は今浮かんだ正直な気持ちを口にする。
「アァン? それよりもしっかりしろってェーの!」
 悪態をつきつつも、乱暴に真奈美が持つテキストを全て奪って、清春は続けた。
「オメェ、今からあのアホ共の相手すンダロォ!?」
「……は、はい」
「ンじゃあ、その前に何をすべきか分かってるよなァ?」
「……はいっ」
「オレ様とマダラでこいつを拭いといてやっから、オメェはオメェがすべきことをやりやがれ! ……モチロン、迅速にナ?」
「はいっ!」
 ありがとうございます!、と頭を下げ、校舎に向かい駆けていく真奈美の背中を二人と一匹が見送る。
「……いい返事。ね、トゲー?」
「クケー!」
 穏やかな声と共に目配せをすると、肩の上の親友が高らかに鳴いた。

 秋、澄みわたる空に心をゆだねた。そんな季節だった。





 相変わらずの長さで申し訳ないです…。
 起承転結の「転」ということで、3つ目は少しだけちくりと来る話を。
 B6は手助けもしれくれるところも勿論ですが、注意をしてくれたりしたところも凄く有難かったので。


 2009.5.23.up