*春、心に沁みる


 放課後、校内の見回りを終えた真奈美が職員室に戻ると、一と悟郎の明るい声が彼女を迎えてくれた。
「おかえり〜センセちゃん!」
「おっ、戻ったな。お疲れ、先生」
 悟郎に「おかえり」と言われ、真奈美は胸が熱くなるのを感じた。
 聖帝に赴任して、数週間。だいぶ教師としての体裁をなしてきたが、ClassZの生徒たち、特に問題児集団A4に振り回され、協力してくれているP2からは頼りないとため息をつかれ、GTRからはお小言を言われる日々だった。挫けてなるものかと強気でいたものの、心の奥では少しだけ落ち込んでしまっていたのだろう。だから、同僚である悟郎に「おかえり」と声を掛けてもらえたことが、新米教師である真奈美を安心させた。もちろん、一からの労いの言葉も同様に嬉しかった。
「ただいま、です」
 笑顔で返事をしようと思ったのに、顔が強張って上手くいかなかった。気を弛ませてしまうと、目の奥に生まれた熱が表に出てしまいそうな気がして、それを抑えるだけで必死だった。
 職員室内を見回すと、彼らの姿しかいない。
「今ね、ハジメとお茶してるとこなんだ。センセちゃんも一緒にどう?」
「え、ご一緒していいんですか?」
「遠慮することないぜ。ほら、こっち来いよ」
「は、はい!」
 二人に手招きされ、おずおずと足を進める。二人の元に近づくにつれ、紅茶の香りが強くなっていった。青りんごのような甘い香りが真奈美の鼻を擽る。
「あ、カモミールティーですね」
「あったり〜」
「へぇ、凄いじゃん。匂いだけで分かるもんなんだな」
「はい、紅茶ってよく飲むんですよ。あ、ありがとうございます」
 一が用意してくれた椅子に座り、真奈美は肯いた。それと同時に、今度は悟郎がティーカップを手渡してくれる。
 お礼を言って、それを受け取った後、真奈美は僅かに顔を近づけて、まずその芳香を味わった。
「いい香りですね、落ち着きます」
 心地よさに、ほっとため息が漏れる。
 ゆっくりカップを傾けると、紅茶の温かさとすっきりとした、けれど深みのある味わいが真奈美の喉を潤した。
「ああ〜美味しい!」
 自然に表情も綻ぶ。それは、彼女を見守っていた二人も同じだった。
「うん、効果覿面だね!」
「え?」
「カモミールってさ、リラックス効果があるって言うでしょ?」
 あと美容効果もね、と付け加えてから悟郎がウィンクする。
「ちょっとガチガチになってたみたいだけど、少しは和らいだだろ?」
 一にも言われ、少し前までの自分を思い出す。そのとき抱いていた緊張に近い気持ちは、今は静かに治まっていた。
「あ、ありがとうございます。あの、もしかして……」
「うん?」
「その、気に掛けてくださっていたんですか?」
「うーん、まあね〜。センセちゃん、頑張ってるけど、ちょっと疲れてるようにも見えたし」
「ああ、それを隠そうと毅然に振舞ってたみたいだけどさ、たまには一息つくのもいいかと思ってな」
 職員室に戻ったときも気が弛まぬよう必死に努めたが、もしかしたら、見回りに行く前…いや、自分では気付かなかったけれど、ここ最近はずっと心を張り詰めていたのかもしれない。
「あの、ありがとうございます」
「いやいや〜、それにツバサが持ってきたコレを早く飲みたいってのもあったしね」
「そうそう、放課後に一杯ってのも結構イケるよな」
 頭を下げる真奈美に、悟郎と一ははぐらかすように付け足す。
 けれど、やはり彼らは自分のために時間を割いてくれたのだと真奈美は思った。胸と瞳の奥に再び温かなものが湧き上がる。
 ありがとうございます、と今度は口には出さず、心の中で囁くように言った。
「一杯って、なんかお酒みたいじゃ〜ん。ハジメってばオッサン化してるよ?」
「オッサンって言うな!」
 賑やかに談笑を続ける二人を見て、思わず真奈美も笑顔になる。
 見えない涙が零れ落ちないように、もう一度カップを傾けると、今度の味は心に沁みていった。

 ありがとう。
 この気持ちを言葉以外でどのように表現したらいいのかと考えたとき、悟郎が紅茶を味わった後に呟いたひと言が耳に入った。
「う〜ん、紅茶も美味しいけど、これに甘〜いケーキなんてのが付いてたら、ポペラ最高だったよねぇ」
「あ〜、いいな。この時間だと小腹も減るし」
 そして、一の同意の声。
「ボク、ショートケーキが食べたーい☆ イチゴがいっぱい入ったやつ!」
「マドレーヌなんかも美味いよな〜」
 二人の会話を聞いて、真奈美は決意を固くする。
 決まった。自分が二人に返えすことのできる、ささやかなお礼。
「あの、私作ってきます」
「「え?」」
 真奈美の言葉に、二人の声がハモった。それと同時に真奈美に視線を向ける。
「お菓子とか作るの好きなので、今度作ってきますよ」
「え、ホント!?」
「マジかよ、先生!」
「は、はい」
 嬉々とした表情の二人に詰め寄られ、真奈美は頷きながら今この場に用意できないことを悔やんだ。でも、喜んでくれているようなので、そこは少し安心する。きっと美味しいものを作ってみせると目を瞑って心の中で誓った。
「あ、あのさ〜センセちゃん」
「はい」
 悟郎に呼ばれ、意識を戻す。目を開けた先には、さっきとはうって変わって少々困惑気味の彼の顔があった。次の言葉を言いよどんでいるようだったが、一と目を合わせた後、決心したかのように口を開いた。
「一応確認しておきたいんだけど……センセちゃんが作るケーキって、妙に黒いってことはないよね?」
「へ?」
「ウニみたいに尖ってるってこともないよな?」
「ええ!? そ、そんなことありませんよ!」
 二人の発言に、真奈美は耳を疑った。
 黒い? 尖っている? そんなショートケーキやマドレーヌなんて見たことも、聞いたこともない。
「ご、ごめんね、センセちゃん! 今のは忘れて!」
「そ、そうそう! キレイさっぱり忘れてくれ!」
 慌てふためく二人に、首を傾げながらも、真奈美は素直にそれに従うことにした。
「わ、分かりました。とりあえず忘れることにします」
「よし、いい子だ、センセちゃん!」
 大きく一度頷くと、悟郎は真奈美の頭をくしゃくしゃに撫で回した。小さく上がった真奈美の悲鳴はどうやら耳に入っていないらしい。
 そして、感極まった一も「えらいぞ〜」と彼女の肩を叩いた。二人から与えられた振動に、カップに入った紅茶が波を立てたので、真奈美は慌ててそれを制した。
「じゃあさ、もし大丈夫なら明日作ってきてよ!」
「んで、また紅茶淹れようぜ」
 二人の提案に、真奈美は口角をゆっくりと上げる。
「もちろん、大丈夫ですよ。明日持ってきます」
「やったー! あ、他のB6も誘っていいかな?」
「ええ、それなら張り切ってたくさん作っちゃいますね」
「よっし! あー、あと、トゲーの分も頼むな」
「はい、分かりました」
 頷く真奈美に、二人の先輩が笑顔を向ける。
 おそらく彼らは自分の気持ちを察してくれたんだろうと真奈美は思った。
 その上で、もう一人で落ち込むことがないように、一人で頑張り過ぎないようにと、新しい『仲間』と明日という『約束』をさり気なく真奈美に繋いでくれる。
 優しさを受けて、こちらも返したいと思ったら、また与えられて。
 嬉しくもあったけれど同時になんだか敵わないな、とも思った。でも今度こそ、倍にしてお返ししてみせる。
「ありがとね、センセちゃん♪」
「サンキュ、楽しみにしてるぜ」
「はい、こちらこそありがとうございます」
 こうして、一つの約束と絆が生まれた。

「これからも大変なことも多いと思うけどさ、こうやって息抜きしながらやってこうよ」
 そう言って、悟郎は真奈美の前に右手を差し出した。
「それに困ったことがあれば、何でも相談してくれよな?」
 反対に、一は左手を差し出す。
「はい、草薙先生に風門寺先生、これからもよろしくお願いします」
 そして真奈美は、二人から差し出された手を両手で包みこむように重ねて応えた。
「うん。よろしくね、センセちゃん」
 悟郎の手が、しっかりと握り返してくれる。
「ああ、改めてよろしくな! 三毛猫先生!」
 同じように手に力を込めるものの、発せられた一の言葉に、……真奈美の、そして悟郎の思考が一時停止する。
「……は、はい?」
「ん? 俺、変なこと言ったか? あ、ごめんな。もしかして手に力が入りすぎちゃったとか」
「……い、いえ、そうではなく」
「…………おい、ハジメ」
「ん、どした? 二人とも変な顔して。特に悟郎の顔はヤバ――」
「アンタはまずセンセちゃんの名前をきちんと覚えなっ!!!」
 どこから出したのか分からなかったが、悟郎の手にあるハンマーが一の頭を強打した。パッコーンと爽快な音と共に一の悲鳴が職員室内に響く。

 ごめんね、と謝る悟郎と、「あれ、じゃあマメ柴先生だったっけか」と首を捻る一。そして、直後にまた響く快音。
 そんな二人のやり取りを見て、申し訳ないと思いつつも、真奈美は声を出して笑ってしまった。

 春、紅茶の温かさが胸を満たした。そんな季節だった。





 予定していたより長文になってしまいました。申し訳ないです。
 今後も季節ごとに他のメンバーも出せればと思います。


 2009.4.20.up