*You only of me


「真奈美〜、明日は何の日?」
 キッチンに立つ真奈美を後ろから抱きしめ、おれは耳元で息を吹きかけるように訊ねた。
「もう、分かってるのに那智君のいじわる」
 くすぐったさに身を捩りながら、真奈美は小さく悪態をつく。おそらく照れを誤魔化しているんだろうけど、そんな姿さえも可愛くて、おれは頬を緩ませた。
「楽しみだな〜お前からのチョコ」
「ふふ、楽しみにしててね」
 真奈美の体温を全身に感じながら、ふと一年前に交わした約束を思い出す。

『これからのバレンタインは、チョコを受け取るの一つだけにしてやろうかな?』
『真奈美せんせいにだけ、おれへのチョコプレゼント権を渡してやるよ。だから、真奈美せんせいも他の奴にチョコなんてやるなよ?』
『真奈美せんせいのチョコは、おれだけのもの。これ、決定だぞ。いいな?』

 半ば強制的にそんなことを言ったのは、まだおれが聖帝学園の学生で、真奈美との関係もただの教師と生徒でしかなかったときのこと。
 今は二人の関係も恋人という形に変わったけれど、おれの気持ちは変わらないし、この約束だって変えさせない。
 そう、真奈美のチョコはこれからもずっとおれだけのもの。
 だけど、次に発した真奈美の言葉がおれを戸惑わせた。
「でも、那智君。無理はしないでね?」
「無理って何が?」
「えっと、その…明日、私以外の人からもチョコ貰っても、私は大丈夫だからねってこと」
「……え?」
 その言葉に自分の耳を疑った。ガツンと頭を殴られたような衝撃がおれを襲う。
 真奈美を抱きしめていた腕も無意識に解け、彼女の背から数歩後ずさった。
「それってさ、どういう意味? おれが他の女から貰ったって、お前は何とも思わないってこと?」
 訊ねるおれの声は無意識に低くなり、笑えるくらい震えてた。
 おれの異変に気付いて振り返った真奈美は、戸惑いつつもおれを気遣うような表情を浮かべていて。でも、その可愛い口で残酷な言葉を言い放つ。
「な、何とも思わないとかじゃなくて、プレゼントしてくれる人がいるなら無理に断らないで欲しいの」
「は? 無理って何? おれは自分の意志で貰わないって決めてるだけだぜ?」
「で、でも」
 言葉に詰まるその態度さえ、おれを苛つかせた。疑心暗鬼が醜い思考と言葉を生む。
「そっか、お前、おれ以外の奴に配りたいから、そういうこと言うんだろ?」
「なっ、違うよ!」
「誰にだよ、言ってみろ。生徒たちかGTRか? それともたまに会ってるって言うB6? 下にいるアホ共?」
「ねぇ、那智君少し落ち着いて?」
「……なんで言わないんだよ、もしかして慧なのか?」
「だから、私があげたいとかじゃなくて、那智君が――」
「なんでだよ! おれはお前からのチョコしかいらない。他の奴らからのなんて貰いたくもないし、無理矢理渡されてもそんなの捨ててやっていいだぜ?」
「那智君!」
 気が高ぶって声を荒らげたおれを真奈美が制止する。そして、震える声で、搾り出すように小さく続けた。
「……そんな言われ方したら、悲しいよ」
 瞳に溜まった涙が、瞬きと同時に真奈美の頬をつたう。
 違う、そんな表情を見たかった訳じゃない。
 だけど、このときのおれはそれ以上真奈美の言葉を聞きたくなくて、涙を流す真奈美を抱きしめてやることもできず、その場から逃げ出した。

 ……もう、最悪だ。

 * * *

 遠くで玄関のドアが閉まる音が聴こえた。
 那智君が出て行ってしまったんだろう。
 黙って立ち去ろうとする彼の背中を引き止めたかった。追いかけたかった。
 けれど、できなかった。
 こんなときに彼が行く場所がどこかも分かっている。今までだって何度か喧嘩をしたけれど、その度に拗ねた那智君が行く先は、決まってお兄さんの部屋だったから。
 けれど、行くことができなかった。
 そこに行ったとしても、彼に掛けるべき言葉が見つからないのだ。
 すぐ隣にあるはずの慧君の部屋が、今はどこよりも遠くに感じた。
 
 静かになった部屋の中で、自分自身の鼻を啜る音が虚しく響く。
 那智君が自分のことを一番に考えてくれることは嬉しかったし、煩わしいなんて思ったこともない。
 けれど、あまりに自分を大切にしてくれるからこそ、ときどき不安に駆られてしまうのだ。
 四月から大学という新しい世界に出て、那智君にとっても多くの出会いがあっただろう。
 その世界の中で、自分という存在が那智君が交友関係を築く上での妨げになっているのではないかと考えてしまう。
 七月の誕生日のときも、大学でできた友人たちが祝ってくれると言ってくれたのに、那智君は丁重にお断りをしたという。
 その他にも、私と過ごすことを優先して友人からの誘いを断ったことが何度もあった。
 自分が心配する度に、「そんなことに文句を言う奴とはつるんでないって」と彼は笑顔で言う。
 那智君の言葉を信じられなかったわけじゃない。だけど、新しい世界でも、学生らしく楽しんで欲しいという気持ちも常にあった。
 だから、つい言ってしまったのだ。
 私は大丈夫だよ、と。
 寂しいという気持ちも少なからずあるけれど、那智君が頑なになってしまう方がもっとつらかった。縛り付けてしまうことの方が耐えられなかった。
 でも、その言葉が彼を傷つけてしまった。

 他の人から貰ったチョコなんて捨ててしまってもいい、と言ったのは彼の本心ではないだろう。
 相手の気分を害さずにチョコの受け取りを回避することなんて、那智君にとっては至極容易にできてしまうことなのだから。
 けれど、たとえ実行に移さずとも、そのような言葉を出してしまった、出させてしまったことが悲しかった。
 彼を追い詰めてしまったのは、紛れもなく自分自身だ。
 もう少し言葉を選べば良かったと反省する部分もあるけれど、那智君に自分の気持ちを隠さず伝えたかった。
 頬を何度もつたう涙を手でこすり、顔を上げたちょうどそのとき、携帯の着信音が部屋の中に鳴り響いた。

 * * *

 慧は何も訊かなかった。
 なんとなくおれの心情を察したのかもしれない。こんなとき、双子って便利だなと思う。兄さんだから分かってくれたのかもしれないけれど。
 小さくため息を吐いて、「お前も阿呆だな」なんて小言を言ったきり、その日は何も言わなかった。
 なのに、次の日の朝になったら突然態度を一変させたのだ。
「そうだ、今日は殺虫剤を炊くからな。この部屋にいるなよ?」
「は? なんだよ、急に」
「急ではない、僕は元々今日炊こうと決めていた」
「……うそつけ」
「何か言ったか?」
「別に〜」
「だから午後には出ていくんだぞ」
 念を押すように言われ、居候であるおれは頷くことしかできなかった。
 今日は日曜日だから、のんびり居座るつもりだったのに、とんだ誤算だった。本来ならば真奈美と出かけるつもりだったけれど、今のおれにそんな資格があるわけもなく。
 昼食後、追い出されるように慧の部屋を出たおれは、とぼとぼとマンションを後にしたのだった。

 休日の午後、しかもバレンタインデーということもあって外はどこも賑わっていた。けれど沈鬱とした気分のおれには、その全ての場所が居心地悪く感じられて。
 どこかに留まることも、もちろんどこかを目指すわけもなく、足が向く方にただ進んでいった。
 街中のカフェを目にすれば真奈美のお気に入りのケーキを思い出し、小さな公園を通り過ぎれば年甲斐もなく砂場で遊んで二人して砂まみれになったことを思い出す。幸せそうな人たちの表情を見る気にはなれなかったが、足を運んだどの場所にも真奈美とのエピソードがあって、それを思い出しただけで少し気分が軽くなったような気がした。
 真奈美がなんであんなことを言ったのかは一晩寝ても分からなかったけれど、今おれがしていることはただの逃避だということだけは確実で。
 だけど、今一歩踏み出す勇気が足りない。
「あれ、方丈君じゃん」
 そんなとき、突然誰かに呼び止められた。
 立ち止まり、まず周囲を見渡して、いつの間にか隣町の駅まで来てしまったことに気づく。
「ちょっと、どうしたのぼーっとして」
 肩を叩かれ、初めてその相手を認識した。
 そこにいたのは、おれが通う大学の同級生だった。

 * * *

 那智君が出て行ってしまった次の日の朝、私は一人学校に行く準備をしていた。
 昨夜の電話は加賀美先生からのもので、その内容は高3を担当している教師の緊急の呼び出しの連絡だったのだ。会議を行うための資料が必要だと言われ、つい先ほどまでほとんど徹夜でパソコンの画面と向かい合っていたため、夜に作ろうと思っていたチョコも作ることができなかった。那智君と仲直りすることも。
 会議が終わったら、すぐに用意しようなんて考えながら玄関の扉を開けると、ちょうど同じタイミングで隣の部屋の扉も開いた。一瞬どきりとしたが、出てきたのはその部屋の住人である慧君だった。
「おはよう、先生」
「……あ。お、おはよう、慧君」
 少し動揺したため、反応が遅れてしまう。そうだよね、寝坊助の那智君がこんな時間に起きているわけないか。
 現れたのが那智君じゃなくて、ホッとしたような少し残念なような。どっちにしろお兄さんの慧君には関係ないのに一喜一憂して申し訳ない気持ちになっていたら、その慧君が訊ねてきた。
「こんな早くにスーツを着て…もしかして仕事か?」
「うん、ちょっと急に会議が入っちゃって。徹夜で資料作りだよ」
「……それだけではないだろ」
「え?」
「いや、なんでもない。パソコンの前にずっといると目も疲れるだろう。会議の前に冷やすなどして、少し休ませた方がいいぞ」
「う、うん、ありがとう」
 徹夜というのは本当だったけれど、それでも目が腫れていることを慧君が気づいてしまったのかもしれない。これ以上余計な心配を掛けさせたくなかったので、一番気になっていたことを尋ねる。
「あ、あの那智君はそっちに?」
「……ああ」
「そっか、なら良かった」
 きっといるだろうという確信はあったけれど、彼が遠くへ行ってしまったわけではないということを知れて、少し気持ちが軽くなる。
「……叩き起こそうか?」
「ううん、無理矢理起こすと機嫌悪いしいいよ。それに那智君のこと信じているから」
 那智君なら戻ってきてくれる。それに、もしずっと慧君の部屋に篭もっていても、今日は引きずり出すつもりでいた。だって今日は那智君が楽しみにしていたバレンタインデーなのだから。
 少しだけ胸を張って慧君に告げると、彼はどこか納得したような表情で「そうか」と頷いてくれた。
「じゃあ、遅刻したら他の先生方に怒られちゃうし、そろそろ行くね」
「ああ、気をつけて」
「うん、ありがとう」
 ラジオ体操をするという慧君とマンション前で別れ、私は足早に聖帝学園に向かった。

 * * *

 日が少し傾いた頃、おれは混雑する街中を一人走っていた。
 手には小さな一枚の板チョコを持って。
 向かうは、もちろん愛するあの人の元。

 * * *

 緊急で行われた会議だったけれど、思っていたよりも順調に進んだため昼過ぎには学校を出ることができた。急いで帰宅した私は、それからずっと台所にこもっている。
 部屋に戻ってきてから、どれくらい時間が経っただろう。玄関から物音がしたので、覗いてみると、そこには息を切らせた那智君の姿があった。
「おかえりなさい」
 那智君の顔を見た瞬間、色々な思いが脳裏を巡ったけれど、最初に出たのはそんな言葉で。
「……ただいま」
 呼吸を整えた那智君がそう返してくれたとき、ほっとしてまた涙が出そうになった。けれど、昨日あんな形で泣いてしまったこともあって、それを悟られないように小さく頷く。
 私が言葉を詰まらせていることに気づいたのか、那智君は静かに靴を脱ぎ、ゆっくりと私の目の前まで来てくれた。そして、どこかばつの悪そうな表情を浮かべ、右手に持ったそれを差し出した。
「これさ」
「うん」
「大学の知り合いに偶然会って、貰った」
「そっか」
「……妬いた?」
「……ん、少し。でも、それよりも嬉しい、かな」
「はは、変な奴」
 少し笑って、那智君が反対の手で私の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「でも、元々は渡すつもりなんてなかったって言われたよ」
「え?」
「大学でおれが真奈美の話ばっかするから、義理チョコもやる気なかったらしい」
 そう言って苦笑いを浮かべる那智は、どこか吹っ切れた表情をしていて。
「彼女大好きな方丈君にあげるチョコなんてない、ってさ。おれが余りにも不景気な顔してるからって今回はなけなしでくれた。コンビニで買ったこれを」
 那智君が差し出した板チョコは、言葉の通り包装もされていない普通のもので。
「おれさ、これ受け取る気なかったんだ。けど、これをお前に見せたら焼きもちやいてくれるかなとか、頬を膨らませたお前の顔が早く見たいとか、そんなこと思ってさ」
 頭を撫でた手をそのまま首の後ろまで下ろすと、那智君は自分の方へと私をそっと引き寄せる。
「はは、やっぱり最悪だよなぁ、おれ」
 抱き寄せられているため、那智君の表情は窺えないけれど、その言葉に昨日のような刺々しさはない。震えた声で紡ぐ那智君の思いを私はただ黙って聞いていた。
「結局は、お前のことしか考えてないんだ。大学でも、他の奴からチョコ貰ってるときでも。お前のことを好きになったときからずっと」
 私を抱きしめる腕に力がこもる。私も那智君を包むように両手を背中に回した。
「一年前もチョコ占有権とかなんとか言って屁理屈捏ねたけど、結局はお前を独り占めしたかっただけなんだよな。おれってつくづくガキ」
「そんなことないよ。一生懸命私を好きでいてくれるっていうのは分かってたから」
「……ばか」
 小さく呟いた那智君は僅かに身体を離し、左手で私の顎を上げた。少しだけ潤んだ瞳とかち合ったと思った瞬間、那智君の唇が重なって。
「最悪なバレンタインにしちゃってごめんな」
「ううん、最悪じゃないよ。さっきまでは寂しかったけど、今は那智君がいてくれるから」
 首を振り、本心を隠さず告げるとまた唇が寄せられた。今度はたぶん仲直りのキス。
「このチョコさ、一緒に食べようぜ」
「うん。あ、私が作ったのも食べてね?」
「そんなの当たり前」
 もう一度キスをして、那智君は私を強く抱きしめた。




 長々とすみません。その割に糖分不足。
 喧嘩→仲直りって結構難しいですね。今回書いて痛感しました。


 2010.3.16.up