*届かぬ想いを 最近の慧は、まるで風を味方につけたかのように颯爽と、そして軽やかに駆ける。 実際、タイムも順調に縮めているらしく、短距離で彼に敵う者は学区内にはいないだろうと言われていた。そんな慧の活躍を耳にして、おれは素直に嬉しかった。 ……それなのにさ、当の本人ときたら。 壁に背を預け、組んだ腕に視線を落とす慧を、おれは椅子に腰掛けながら横目に眺めていた。 今、生徒会室には、おれたち二人しかいない。 「最近、調子いいみたいだね?」 そう声を掛けると、慧はゆっくりと瞳をこちらに向けた。訝しげな表情と視線の先でぶつかる。 「……何の、ことだ?」 少し間を置いた後、そう問いかけられて、おれは自分の耳を疑った。 いつもの慧なら、少しくらい言葉が足らなくとも、おれの言いたいことなど容易に理解できるはずなのに。 けれど、無駄なことを嫌う慧が敢えて訊ねるのだから、彼には珍しく、本当に言葉の意図が掴めていないのだと思った。 そんな慧の反応を不思議に感じたけど、咎めるほどのことではなかったし、おれは付け加えるように言った。 「“何の”って、陸上だよ。また自己ベストを更新したんだって?」 「……ああ、まあな」 すごく喜ばしいことのはずなのに、返ってきたのは驚くほど薄い反応。おれの中の疑問は更に大きくなる。 俊足のスプリンターである慧はエースとして、聖帝の陸上部を引っ張っていた。 自分に対しても常に厳しく、そして高い目標を持って部活動に取り組む。それを達成するために、慧がどれだけの努力をしているのかもおれは分かっているつもりだ。 だからこそ、努力が実ったときの喜びを共有してきたというのに、今日の慧の態度は一体どういうことだろう。 ん〜、正確に言うならば“今日”だけではなく、“ここ最近”と訂正した方がいいのかもしれない。 黙々と走り続け、着実に好成績を残しているものの、けれど決して心は満たされていないような。と言うよりも、心はどこか別の場所にあるような。そんな頼りない感じ。 「今の慧なら、A4なんて簡単に捕まえられるかもね?」 少しは刺激されるかと思って問題児集団の名を出したのに、慧は言葉を返さなかった。 ただ、再び視線を下方へと向ける。 そんな慧の態度に、おれは軽く息を吐いた。別に無視したつもりはないのは分かるけど、それでも、おれとしてはちょっと傷つく訳で。 「……どんなに足が速くても、届かないものもあるんだな」 「え?」 ぽつりと呟かれたひと言に、おれは視線をその声の主に向けた。 「確かに今の僕なら、A4を捕まえることなど容易いだろう。だが……」 最後の言葉は紡がれることなく、虚空へと消える。 だけど、なんとなく、慧が言わんとしていることをおれは察した。 そして、何を求めているのかも。 「本当に捕まえたいものには、届かない?」 「……っ!」 思わず口に出してしまった言葉に、慧が敏感に反応した。おれを見据える空色の瞳の中に不安や動揺を感じ、はっと息を呑む。 こんな表情の慧を見るのは初めてかもしれないと思った。 方丈慧という人物は、文武両道で、常に自信と誇りに満ちていて、少し飽きれるくらい真っ直ぐで。 それも紛れもない事実だけれど、そんな強さの裏側にある、彼の繊細な部分を知る者は果たしてどれほどいるんだろうか。 年を重ねるにつれ、見せることの必要性がなくなっていったこともあるだろうし、慧自身が無意識に隠していた所為もあるのかもしれない。 けれど、知力や運動神経で人に劣ったことのない慧が、初めて挫かれたのは心だった。彼なりに密かに、おれにしてみればあからさまに向けられていた、とある人物への淡く純粋な想い。 ……もう、仕方ないな。 おれは、さっきとは異なる色のため息をつく。 嫉妬してない、と言ったら嘘になる。家族思いの慧が他人に初めて関心を持ったのだから、ムカつかない訳がない。 なんて言うか大事にしてたオモチャを横取りされたような感じ? いや、違う。オモチャが自然におれから離れていったのかな。ただ、本来の持ち主の元にかえっただけなのかもしれない。 まぁ、どっちにしろおれからしたら心底不愉快なことなんだけど。 ……だけどね、おれは妨害するよりは応援するのを選ぶよ。 大好きな貴方と結構気に入ってるあの人ために、ね。 「そんな弱気でどうするのさ、慧」 「…………」 口を噤む慧に構わず、おれは言葉を続けた。 「諦めたら、そこで足は止まっちゃうよ?」 「……だが」 「人の心は無理矢理捕らえるものじゃないよね? まずは呼びかけて、声に気づいて貰おうよ」 もしかしたら、相手が足を止めてくれるかもしれないし、場合によってはこちらに歩み寄ってくれるかもしれない。 それに敢えて言わないけど、その意中の人物だって決して慧に対して冷たい訳じゃない。むしろ、おれには好意的にさえ見える。 だけど、彼女の好意は平等だった。それが慧を不安にさせるんだろう。だからって諦めるには早すぎる。 「あと、慧にはおれがついてるってこと忘れてないかな〜?」 「……那智」 「慧とおれは最強だよ? おれたちに不可能の文字なんてない」 それは以前どこかで告げた台詞。 今こそ、この言葉を彼女に証明するときが来たのかもしれない。 「それにさ、貴方はおれの兄さんじゃないか」 だから大丈夫だよ、と笑ってみせる。 この確信には、余計な言葉はいらなかった。 実は、慧と励ます相手を那智と瑞希、どちらにするか最後まで悩みました。 でも今回は双子の絆を書けた(はず)ということで自分を無理矢理納得させてみたり(笑) 3年生だったら普通に引退しているはずですが、たまに走っているということでお願いします(強引だけど) 2009.3.23.up(3.30加筆修正) |