*不器用な彼と鈍感な彼女の事情


 慧君、と呼ばれるのがむず痒い。
 双子で、しかも一緒にいることが多い慧と那智を、周囲は苗字ではなく名前で呼んだ。
 十八年その名で呼ばれてきたのだし、慣れていたはずなのに、最近はなぜか不快にさえ感じる。
 ただそれは、ある特定の人物に対してのみなのだが。

「慧君!」
 背後から呼ばれ、慧は眉間に皺を寄せながら振り向いた。
 立ち止まってくれたと安心した真奈美が近寄ると、自分を睨みつける慧と目が合う。
「……僕をそう呼ぶな」
 明らかに不機嫌な声で言われ、真奈美は戸惑いの表情を浮かべた。
「え、でも、苗字だと分かりにくいって」
 確かに、そんなことを以前に自分か那智が言ったような気がする。
 それは、自分たち双子が初対面の相手によくする提案だった。
 だが機嫌の優れない生徒会長殿の前では、過去に交わされた約束など風前の塵に等しい。
「生徒を下の名で呼ぶなど、教師として不適切な行動だと思わないのか?」
「うっ、思います……」
 慧に更に睨まれ、真奈美は身を縮めるようにして答えた。
「ごめんなさい。けい……方丈君が言う通り不謹慎でした」
 『方丈君』と呼ばれ、慧は違和を感じた。だが平然を装い、真奈美に言う。
「ふん、分かっているならいい。それに僕だけでなく、あの阿呆どもも名前で呼ぶ必要はない」
「あ、阿呆って……」
「A4のことだ。僕を方丈と呼ぶなら、あいつらだって苗字で呼べ」
「こ、心がけます」
「(ギロリ)」
「善処します!」
 また睨まれ、真奈美は小さくなった。
 自分が言葉を発するたびに怯えるように身を小さくさせる真奈美を見て、慧はため息をついた。
 それを落胆と取ったのか、真奈美は更にしゅんとなる。
「本当にごめんね。なんだかみんなと仲良くなれた気がして、ちょっと調子に乗ってました……」
「仲良く、だと?」
 真奈美の言葉に、慧は眉を顰める。
「僕たちが名前で呼ばれるのは、区別化のためだぞ。決して親近感を持たせるためではない」
「た、確かに二人を苗字で呼んだら混乱しちゃうかもしれないけど、私は少しでも仲良くなれたような気がして嬉しかったの」
「お前の考えは一方的過ぎる。お前が僕たちを名前で呼ぶことで親しみを感じるのは勝手だが、それだけではただの自己満足だ。あの阿呆どもはそれでいいのかもしれないが、僕は違うぞ」
 いつもとは違う慧の雰囲気に、真奈美は圧倒される。だが、慧は気にすることなく、最後にひと言付け加えた。
「僕もお前を名前で呼べたとき、僕たちは初めて対等になれる」
 そう告げる慧の瞳は真剣そのものだったが、彼の理論に真奈美は一瞬首を傾げた。
「……ということは、方丈君が名前で呼んでくれたら、私も慧君ってまた呼べるの?」
「な…っ」
「うん、じゃあ、呼んでよ? 少し照れるけど、女子の中にも『真奈美先生』って呼んでくれる子がいるし」
「そ、そうじゃない!!」
 真奈美の提案を慧が慌てた様子で遮る。真奈美には、慧が声を荒らげる理由が分からなかった。
「え、でも……」
「僕は、対等な立場でない限り、名前で呼び合うことなど言語道断と言っているんだ!」
「だから、対等な立場じゃないのかな? 私たち、同じ目的のために一緒に頑張ってるんだよ?」
「僕の言う対等な立場とは、そういうことではない! お前と僕は――」
 ――『教師と生徒』、だろう?
 そう言い掛けて、慧はやっと今まで自分を襲っていた不快感の正体を知った。
 真奈美に名前で呼ばれることも、彼女が親近感を持って接してくることも決して不愉快ではなかった。
 ただ、今の自分が彼女を『先生』としか呼べない現状に苛立ちを覚えていたのだ。
 真奈美が自分たちの関係を『対等だ』と言ってくれて、慧は嬉しかった。それが例え、教師と生徒という立場を除外して言っている訳ではなかったとしても、彼女のひと言で心が満たされたのは紛れも無い事実だった。
 けれど、慧はそれを素直に受け入れられるほど自分が器用でないことも知っていた。
 自分たちが単なる『教師と生徒』であって、それ以上の関係を望んではいけないこと。それでも無意識に求めてしまっている自分に対しての憤りをなぜか彼女にぶつけてしまっているという悪循環。
 それに気づいたとき、慧は自分をただただ不甲斐なく思った。
 真奈美が、今まで周りにいた人々のように区別化のためだけに自分や那智を名前で呼んでいたのなら、このような感情も生まれなかったのかもしれない。
 彼女の言葉や態度から伝わる親愛の情が、慧を不安定にさせた。
「……もういい。で、僕を呼び止めたのには理由があるんだろう?」
「あの、さっき方丈君の弟さんが方丈君を……」
「そんな呼び方では分からない」
「え、だから方丈君の…」
「今まで通りでいい!」
 慧が望むように苗字で説明を続ける真奈美を見て、最終的に折れたのは慧本人だった。
 その言葉に、真奈美は少し嬉しそうに顔を緩ませた。
「あのね、さっき那智君が慧君を捜してたよ」
 彼女の伝えたいことは、最初に説明を受けた時点で十分理解していた。
 ただ、『方丈君』と呼ばれることが不快で、悲しくて、耐えられなくて、声を荒らげた。
 そして、『慧君』と呼ばれたことに、今まで以上の心地よさを感じている自分に気づく。
「……分かった。もしまた那智に会ったら、すぐ向かうと伝えてくれ」
 そう言って、真奈美に背を向ける。
「け、慧君?」
「……少し頭を冷やしてくる」
 立ち去ろうとした慧が、ふと足を止めた。そして、真奈美の方を見ることもなく、呟くように言う。
「……さっき、僕が言ったことだが忘れてほしい」
「さっきって、名前のこと?」
「ああ、屁理屈をこねて悪かった。だから、お前は今まで通りにしてくれればいい。後は……僕自身の問題だからな」
 そう、少し擦れた声で告げた。
 最後の言葉が真奈美に届いたかは、慧自身も分からなかった。
「あの、慧君!」
 足を進めた慧を今度は真奈美が呼び止めた。
「……なんだ?」
「じゃあ、『真奈美先生』って呼んでくれるって話も無しかな?」
 何気なく尋ねた真奈美だったが、その直後に慧の雷が落ちて、再び小さくなったことは言うまでもない。





 慧はいつでも怒っているイメージです(笑)
 教師にタメ口きいてる時点で対等も何も…ってのは、素流してやってください(笑)


 2009.2.21.up