※大学生の八木沢が横浜に住んでいます。
*花束を君に* 9月になったばかりのある日のこと、僕は大好きな人が暮らす菩提樹寮を訪れた。 本当は夕方にみなとみらいで待ち合わせをする約束だったのだけど、少しでも早く彼女に会いたくて、朝から作っていたあるモノを渡したくて、待ちきれず寮まで来てしまったのである。 でも、彼女は寮にはいなかった。 それもそのはず。大学生の僕とは違い、彼女はまだ高校生だから、9月に入ればすぐ新学期が始まる。つまり、14時をまわったばかりの今、学校で授業を受けている彼女が寮にいるはずがない。 そんなこと、少し考えれば気づけることなのに、菩提樹寮の扉を叩き、寮母さんが出てくるまで完全に失念してしまっていた。 かなり恥ずかしい気持ちになったが、寮母さんは別段気にした様子もなく、笑顔で僕を迎え入れてくれた。 元々星奏学院の生徒でもなければ、一年前ならともかく今なんてほとんど部外者同然の僕だけれど、この人とは既に顔見知りの仲だ。 「かなでさん?」なんて、僕だけが呼んでいる呼び名で暗に彼女とのことを訊ねられ、先ほどとは種類の異なる気恥ずかしさに頬が火照るのを自覚する。 何も言えずに顔を伏せていると、彼女はくすりと声を漏らした後、「じきに戻ってくるだろうから、お茶でも飲んでなさいな」とラウンジで待つよう促してくれた。 如月くんをはじめとした菩提樹寮の人たちへの手土産とは別に用意していた実家の和菓子を差し出すと、寮母さんはあらあらと言いながらもそれを喜んで受け取ってくれた。「じゃあ、絶品の麦茶を用意しなくちゃね」なんて言いながら、キッチンへと向かった寮母さんの背中を僕も穏やかな気持ちで見送る。昨年この寮にはお世話になったから、自分で用意することもできるのだけど、寮母さんの好意を無下にはしたくなかったので、そのまま甘えさせてもらうことにした。 一人きりになった僕はソファに掛けながらラウンジの中をゆっくりと見渡した。 ここに訪れるのは決して久しぶりではないものの、彼女を含めた寮生のいないラウンジは、どこか広く寂しく感じられて。この静けさも嫌いではないけれど、やはり彼女がいた方がずっと心地良いのにと心のうちで呟く。 寮母さんは、すぐに戻ってきた。 麦茶の入ったグラスを僕に差し出してくれた寮母さんは、先ほどよりも楽しそうな笑みを浮かべている。キッチンで何かあったらしいことは分かったものの、それを訊ねても、寮母さんはにこにこと笑っているのみで何も教えてくれなかった。 そのことを少しだけ不思議に思ったりもしたけれど、無理に追及することもないだろうと思った僕は別の話題を振った。それ以降は、その話に花が咲いた。 暫くして。そういえば、と何かを思い出したらしい寮母さんが突然席を立った。どうやら裏庭で何か仕事するつもりだったようだ。僕も何か力になれればと手伝いを買って出るも、「あの子たちがそろそろ戻って来る時間だから、私の代わりに迎えてあげてちょうだい」と返された。時計を見たら、確かに最後の授業が終わっていてもいい時間だった。 寮母さんが出ていくと、ラウンジには静寂が戻り、再び僕は一人きりになった。 自分以外の者の姿のないラウンジはやはり広くて、寂しくて。 静けさも悪くはないけれど、と先ほどと同様の結論に向かいかけたとき、玄関の方で何か物音がして僕の思考は一瞬で停止する。もしやと思って、心を躍らせながら駆け足で向かうとそこには大好きな彼女がいた。 「おかえりなさい」 「えっ、ゆ、雪広さん!?」 玄関で出迎えた僕を見て、案の定彼女は驚きの声を上げた。大きな瞳を何度も瞬かせて、僕のことをじっと見詰めている。 彼女が驚くのも無理もない。今日会う約束はしていたけれど、待ち合わせの時間はもっと遅くで、場所もここではないのだから。 「驚かせてしまいましたね、すみません。気ばかりが急いてしまってこんな時間にお邪魔してしまいました」 「い、いえ! その…びっくりしましたけど、雪広さんと早く会えるのは私も嬉しいです」 そんな嬉しい言葉を返されて、僕の胸と頬には一瞬にして熱が帯びる。彼女の表情を窺うと、僕と同じくらい頬を赤く染めていた。 彼女とのこのようなやりとりに幸福感を覚えつつも、ずっとこの場に居続けるのもなんだか気恥ずかしくて。俯く彼女の横顔に少しだけ汗が浮かんでいるのを見つけて、僕は口を開いた。 「外は暑かったでしょう、麦茶でもお出ししましょうか?」 「ダ、ダメですっ!!」 「……え?」 今度は僕が目を瞬かせる番だった。 決して強い語調ではなかったけれど、彼女が声を上げたのは事実で。 首を傾げる僕を見上げながら、彼女はううっと小さく唸った。 「あ、あの、冷蔵庫…開けちゃいました?」 「いいえ?」 彼女の問いかけに、僕は尚も首を傾げて答える。 今日作ってきた和菓子は冷やす必要のないものだから、冷蔵庫に入れてもらうことも、自ら入れることもなかったけれど…なぜ彼女はそんなことを訊くのだろう? 僕の疑問とは裏腹に、彼女は僕の答えに安堵の表情を浮かべた。 「飲み物なら私が用意しますから、雪広さんはラウンジで待っててくださいね」 そう彼女に言われ、僕は頷きつつも、今日ここに来た理由を思い出す。 「あ、そうだ。今日はあなたのお祝いを持ってきたんです。一緒に食べませんか?」 「……へ? お祝い??」 このことについて彼女が驚くということは、想定内ではあった。 今日は普通に出掛ける約束をしていたのだけれど、僕には数日前からある考えがあって。 それは、もちろん。 「全国大会で、あなたが今年も頑張ったお祝いです。ささやかですが、僕に祝わせてくださいませんか?」 そう訊ねると、彼女は一瞬目を見開いたものの、ふわりと笑みを返してくれた。 「嬉しいです、ありがとうございます。――でも」 そして、なぜかくすくすと声を出して笑う。 「どうしました?」 「ちょっと変だなと思って」 「変?」 「今日は私が雪広さんのお祝いをするつもりだったんです」 「え…?」 「でも、二人でお互いのお祝いをするのも楽しいかもしれませんね」 「えっ、あの、僕のお祝いって…?」 問いかける僕に、彼女は答えの代わりにある言葉を告げる。 「誕生日おめでとうございます、雪広さん」 その言葉をきっかけに、僕の頭の中にあった全ての疑問がきれいに解ける。 キッチンから戻ってきた寮母さんが楽しそうな笑みを浮かべてたこと、キッチンに向かおうとした僕を彼女が止めたこと、そして冷蔵庫を開けたのかを心配そうに訊ねたこと。 料理が得意な彼女は、きっと何か――おそらくケーキだと思うけれど――を作っていてくれたのだろう。僕の誕生日を祝ってくれるために。 彼女のことで頭がいっぱいで、今日が何の日だなんてすっかり忘れてしまっていた。 今日一番じゃないかと思えるくらい恥ずかしいことだけど、それ以上に幸せで、胸にあたたかな熱がともる。 足早にキッチンへ向かう彼女の後ろ姿を目で追いながら、僕は確かな幸福を噛み締めた。 Happy Birthday YAGISAWA!! まず、誕生日当日までに完成が間に合わなくて本当にすみません!! あと、導入部も無駄に長くてすみません。そして、八木沢さんはこんなうっかりでいいんでしょうか…(汗) 2010.9.4.up |