*progress*


 テーブルに並べられた洋菓子とハーブティーの甘く爽やかな香りが鼻腔をくすぐり、少女たちの弾んだ声が耳に響く。
 それは、いつもと変わらぬ休日の一風景だった。そのはずだった。
 唯一、妹の言動の不可解さを除いては。

「冥加さん、紅茶のおかわりを入れましょうか?」
「ああ、頼―「すみません、宜しくお願いします」

 冥加の言葉を遮り返事をした枝織が自分のカップだけをかなでの方に近づける。
 その反応に冥加はもちろんかなでも一瞬目を見開いたが、にこにこと微笑みを浮かべている枝織を見て、おそらく聞き間違いか何かだろうとお互いが同じような結論を脳裏で出した。

「あ、あの、そちらも入れておきますね」

 枝織のカップに紅茶を注ぎ足した後、かなでが視線を向けて告げると、冥加は「頼む」と短く答えた。その言葉は遮られることはなかったが、枝織の違和感ある行動はそれ以後も続いた。

「そういえば、冥加さん」
「なん―「はい、どうしました?」

「あの、冥加さん」
「どうし―「はい、なんでしょうか」

 かなでが冥加に話しかけるたびに、兄の返事を遮って枝織が笑顔で応じるのである。
 こうまで続くと流石のかなでも少々戸惑いを覚えた。

「し、枝織ちゃん…?」
「はい」
「あ、あのね、私が呼んだのは冥加さんで…」
「ふふ、お忘れですか? 私も“冥加”なんですよ」
「そ、それはそうだけど、今までは返事しなかったよね?」
「ええ、でも少し気が変わったんです」

 きっぱりとそう答えられては、かなでにはどう言葉を返したら良いのか分からない。困惑の色を濃くすると、沸点のあまり高くない冥加がとうとう痺れを切らした。

「枝織、お前は一体何を企んでいる」

 眉間に深く皺を作り鋭い眼光で見据えるも、やはり血を分けた兄妹というべきか、枝織は全く動じることもなく冥加を見詰め返す。
 そして。

「兄様ならばお分かりになるはずです」

 にこりと穏やかな笑顔を浮かべ、そう意味深に告げる。
 彼女の言葉の意味を解することができないかなでは眉尻を下げて、二人を交互に見ては掛けるべき言葉を探しているようであったが、枝織の言う通り冥加自身には思い当たる節があった。

 ――それは数日前に兄妹で交わされた会話。

『どうして兄様はかなでさんのことを名前でお呼びにならないのですか?』

 珈琲を淹れている枝織に唐突に訊ねられ、冥加は資料を捲る手を止めた。
 冥加の知らぬ間に親交を深めていたらしい妹は、最近ではかなでのことを名前で呼んでいる。それに対して思うところがないわけではないが、今はそれを指摘する機会ではないだろう。

『理由などない。別に今のままでも支障はないしな』
『兄様はそれでよろしいのですか?』
『良いも何も、俺はなんとも思わん』
『……嘘つき』

 ぽつりと言葉を零した妹は、珍しく頬まで膨らませて不満を訴えている。
 そのことに対して妹を注意することもできたはずなのだが、自分とかなでの話をこれ以上広げたくないというのが正直な心境だった。
 だから、無理矢理に視線を資料に戻し、頭に全く入らない文字の羅列を目で追った。

『それならば、私にだって考えがあります』

 珈琲カップをテーブルに置き、そう告げた妹の顔はおそらく今と同じ表情を浮かべていたのだろう。
 未だに微笑みを浮かべたままの枝織を見据える冥加の脳裏にそんな考えが過ぎる。
 すると、この重い空気に耐えかねたかなでが震える声で言葉を紡いだ。

「ご、ごめんね。私が呼び方を変えないと枝織ちゃんも困っちゃうよね」
「かなでさんなら分かってくださると思っていました」
「小日向、こいつの戯れに付き合うことはない。……それよりも外に出るぞ」
「え?」
「来い」
「ええっ!?」

 すくっと席と立ち、かなでの手を強引に引っ張ると冥加は玄関に向けて大股で歩き始めた。

「いってらっしゃいませ」

 ソファに座ったまま、兄とかなでの背中を見送る枝織が声を掛けるも冥加はそれに応えることなく、部屋を出た。
 暫くして、バタンと遠くで玄関の扉が閉まる音が響くと、リビングは静寂に包まれた。

「ふふ、後は兄様次第ですね」

 満足げに微笑みを浮かべそう呟いた枝織の声は、もちろん兄の耳には届くことはなかった。

 * * *

 マンションの外へとかなでを連れ出したものの、冥加は特に目的もなく歩いていた。
 冥加が不機嫌であることを今までの言動や腕を掴む力の強さから感じていたかなではずっと口を噤んでいたが、思い切ってその言葉を発した。

「け、けんかはダメですよ!」
「喧嘩などしていない」
「でも、枝織ちゃんの様子が変でした。それに冥加さんも…」
「俺は別に変わらない」

 無表情で告げられるも、それを素直に信じることはかなでにも出来なかった。

「枝織が口にしたことも気にすることはない。さっきも言ったが、ただの戯れだからな」
「…でも、その通りだなって思うんです」
「お前まで毒されたのか?」

 ぴたりとその歩を止め、冥加はかなでを見下ろした。30cm以上もの身長差があるため、かなでが感じる威圧感は相当なものだったが、それに物怖じすることなく言葉を続ける。

「だって二人とも“冥加さん”なことは確かですし、やっぱり混乱しちゃいますよね?」

 今回のことは確実に枝織がわざとやったことなのに、この女はどこまでお人好しなんだと内心嘆息するも、冥加は否定の言葉を口に出すことができなかった。

「だから、冥加さんへの呼び方を変えることにします」
「…………」
「…あの、いいですか?」
「別に俺は今のままでも構わない。だが、どうしてもと言うのならば、お前の好きなようにしろ」

 「いいぞ」のただ一言が言えない冥加は、ひどく遠回しな許可を出す。
 しかし、そんな返事でもかなでは嬉しそうに顔を綻ばせた。
 
「え、えっと…じゃあ、お兄さんの方の冥加さん?」
「長い」
「うっ」
「玲士」
「え?」
「名前でいいと言ってるんだ。呼んでみろ」

 自分を見上げるかなでの頬がだんだんと紅潮していくのを間近で見ながら、冥加は彼女の言葉を待った。
 もしかしたら、こんな機会をずっと待ち焦がれていたのかもしれない。薄々感づいていたことに漸く素直に向き合うことができたような気がした。
 そして。

「れ、いじ…さん」
「それでいい」

 目を細め、華奢な身体を両腕に包んだ。冥加に強く抱きしめられたことにより、かなでの身体は僅かに宙に浮く。
 小さな悲鳴が耳元に響いたが、冥加は気にせずそのままの体勢で腕に力を込めた。

「みょ、冥加さ…っ」
「玲士だ」
「れっ、玲士さん、苦し…」
「我慢しろ」

 冥加にはその腕を解けない理由があった。
 今、自分の緩んだ表情を見られたくない。たとえそれがかなでであってもだ。

「壊れ、ちゃいます…っ」
「そんな訳がないだろう」

 俺がかなでを壊すはずがない。
 そう耳元で告げると、少女の身体は一瞬硬直し、その後自身の両腕をゆっくりと冥加の背中に回した。





 枝織ちゃんが意地悪ですみません…。でも、その意地悪も兄様のためを思ってですので!


 2010.6.3.up