*ふたりの距離* 「律くん!」 放課後、星奏学院の屋上で一人佇んでいると背後から声を掛けられた。振り向いた瞬間上半身に軽い衝撃を受け、律は後方によろめきそうになるも、どうにか体勢を維持する。 どうやら何かが突進してきたらしい。正確には抱きついてきたのだが、あまりに突然の出来事に律は状況を把握できずにいた。 ただ、耳に届いた声は確かに聞き覚えがあって。 それに何より、この学院内で自分のことを『律くん』と呼ぶ者は一人しかいないはず。 そんなことを考えながら視線を落とすと色素の薄い柔らかな髪が律の目に入った。 「小日向」 確信を持ってその名を呼ぶと、浅葱色の大きな瞳が律を見上げた。 視線が交わり、目の前の少女ははにかむように微笑みを浮かべた。約二年ぶりに再会した少女――小日向かなでは、律が最後に見た姿よりもやや大人びた顔つきになっているものの、今向けられている笑顔はあの頃と変わらぬままで。 「どうしたんだ、いきなり?」 自分を見上げている幼なじみとの距離感に僅かに違和を感じつつも律は彼女に問う。 すると、かなでは律から視線を外すことなく、ぽつりと言葉を紡いだ。 「やっぱり」 「うん?」 「律くん、中学を卒業したときよりも大きくなったよね?」 「……え?」 まるで小さな変化を見つけた子どものように得意気に告げられ、律は少々面食らった。 確かにこの数年でいくらか身長が伸びたような気がするが、まさかこの状況――かなでは未だに律に抱きついている――で指摘されるとは思いもよらず。 「本当はね、この前からずっと思ってたんだ。でも、律くんの傍にきてはっきりしたよ」 「ん、どういうことだ?」 「こうやって見上げたときの距離がちょっと離れちゃったから」 かなでの言葉に、先ほどの違和感の正体もまた同じであったことに気づく。それと同時になぜか胸がちくりと痛んだ。 彼女と離れている間に自分の身長は伸び、自分と離れている間に彼女の表情はあどけないものから少しだけ大人びた。 それはどちらも些細な変化なのに、二年という空白の時間を実感させるには十分で。 かなでと響也を残し、星奏学院へ入学したことを悔いたことは一度もない。 それならば、この胸の痛みは何なのだろうか。 果たして弟の響也に対しても、自分は同じように感傷的になるのだろうか。 いくら考えても律には答えは出なかった。 けれど、ただ一つ確かなことがあって。 「……律くん?」 押し黙っている律をかなでが不思議そうに見上げると、律は眼鏡の奥の瞳をゆっくりと細めた。 そして、自身の膝を僅かに屈め、かなでと目線を同じにする。 過ぎてしまった時を戻すことも、これまでの空白を埋めることももうできない。 けれど。だからと言って、そのことを憂う必要はないかもしれない。 時が戻ったとしても自分の選択が変わることはないだろうし、そして何より。 自分の名を呼ぶ声も、自分を見詰める表情も、自分の心を満たしてくれる音色もすぐ傍にある。 そう、彼女は今ここにいる。それだけは紛れもない事実なのだから。 「これからはずっと…」 「…え?」 「いや、その…一緒に全国大会を目指そう。お前がいてくれると俺は心強い」 「うん、私も同じだよ。だから、一緒に頑張ろうね!」 頷いて、かなではにっこりと笑顔を見せた。それに釣られるように律の表情も柔らかくなる。 胸の痛みはいつの間にか心地よい熱に変わっていた。 「…………何やってんだよ」 穏やかな顔付きで見詰め合う二人の耳に、苛立ちと諦めがない交ぜになったような低い声が響く。 二人が同時に視線を移すと、その先にはジト目で二人を睨む響也の姿があって。 「あ、響也!」 「どうした、もしかして小日向を捜しに来たのか?」 律の言う通り、響也はかなでの練習に付き合うためにわざわざ屋上まで捜しに来た。 それなのに扉を開けた瞬間目に入ったのは、抱き合っている(正確にはかなでが一方的に抱きついていたのだが、少なくとも響也にはそう見えた)自分のよく知る二人である。 もちろん愉快なはずがない。 こちらの存在に気が付いたものの、未だ身体を離す気配のない兄と幼なじみを見て、彼らが今どんな状態でいるのかも、自分がこんなに強く睨んでいる理由も本人たちは全く分かっていないんだろうな、と響也は盛大なため息をついたのだった。 真面目な話では、かなでちゃんを「ガーン!」とさせるのは可哀相なので、律のボケ度は低めになることが多いです。 甘える=抱きつく、と安直な考えですみません…(汗) 2010.5.17.up |