*腕に包む幸い*


 とても微笑ましいのに、素直に喜べないな。
 目の前でじゃれ合う可愛い彼女と愛犬を見ながら、榊大地は心のうちでそんなことを呟いた。

 かなでを自宅に招き入れたのは数十分前。
 運が良いのか悪いのか、ちょうど母親も不在らしく、玄関に入った二人を迎えてくれたのは愛犬のモモだけだった。
 元々人懐こい犬ではあったけれど、どうやら突然の来訪者のこともすぐに気に入ったようで。警戒心もなく、彼女の足元に飛びつき、かなでがしゃがむと歓迎すると言わんばかりにその頬をペロペロと舐め始めた。
 そんなモモの様子に、かなでが大いに喜んだことは言うまでもなく。戯れる二人(否、一人と一匹)の姿は榊から見ても微笑ましいものであったが、いつまでも玄関にいるのも体裁が悪いので、声を掛け、リビングに移動するよう促した。
 台所で飲み物を用意している間も、かなでの楽しそうな声は榊の耳にまで届いてきて。
 可愛がっている犬を彼女が気に入ってくれたのはとても喜ばしいことなのに。その反面、どこか疎外感を感じている自分もいて。
 大人気ないな、と嘆息しつつグラスを持ってリビングへ向かうと、相変わらずかなでたちは仲良く遊んでいた。
 フローリングに腰を下ろし、モモの身体中を撫で回すかなでは、ちょうど榊に背を向けた状態で。
 彼女があまりにも小犬に夢中なものだから、少し意地悪がしたくなって、冷えたグラスをそっと彼女の頬に寄せた。
 案の定小さな悲鳴が上がり、榊がくつくつと喉を鳴らすと、それに気づいたかなでが声の主を見上げる。

「どうだい、うちのモモは?」
「あの、すごく可愛いです!」
「ひなちゃんにそっくりだろ?」
「え、そうですか?」
「うん、素直そうな目とかかなり似てると思うな」

 両者を見比べた榊がグラスをテーブルに置きながら告げると、 

「自分では分からないけど、モモちゃんとそっくりなら嬉しいです」

 暫し子犬と視線を通わせた後、そう言ってかなでは照れるように頬を染めた。
 そんなかなでを見て、榊の表情も自然に柔らかなものになる。
 お互いに顔を見合わせ、ふふっと声を出して笑ったら、先ほどまで榊が感じていた疎外感もだんだんと薄れてゆき。
 だが、それも束の間。甘えん坊のモモが身体をすり寄せてきて、かなでの興味はそちらへとすぐに移ってしまった。
 頭を撫でられ満足気な表情を浮かべる小犬をジト目で睨み、仕方なく榊もフローリングに腰を下ろす。
 それから何度かかなでと会話をしたが、その内容の全てがモモに関することで、いつもと変わらぬ飄々とした態度で答えるものの、榊の胸中はあまり穏やかではなかった。
 かなでとモモが仲良くじゃれ合う姿は確かに微笑ましくもあり、愛らしい。
 けれど。
 彼女の興味や視線の全てが愛犬に注がれるのは、全くもって面白くない。
 自分が至極幼稚な理由で不機嫌でいることを榊自身重々承知していたけれど、その不満を子どものように声に出して訴えるのはなんとなく躊躇われて。
 それならば、と。
 可愛い愛犬がそうしたように。言葉を使わず、ゆっくりとかなでの方へとすり寄り、その長い両腕で彼女を背後から包んだ。

「えっ、だ、大地先輩!?」

 突然そんなことをされたかなでは、先ほどよりも僅かに高い悲鳴を上げたが、榊は気にする素振りも見せず、ただ自身の口角を上げるのみで。
 小柄な少女の身体は榊の腕の中にすっぽりとおさまり、身動きを取ろうにもその腕が許してはくれなかった。
 慌てた様子を見せるかなでの首筋に顔を埋めると、今度は身体が強張るのを感じて、榊の口からはくすくすと声が漏れた。
 お仕置きだよ?
 声なき言葉で囁き、その白い肌に唇を落とす。
 直後、榊の耳に届いた彼女の声は小さく震えていて、触れた肌のように微かに熱を帯びていた。
 回した腕に少しだけ力を込めると、かなでの体温を全身に感じられるようで、それだけで幸福感に包まれた。
 彼女が見てくれないだけで心にぽっかりと穴が空いたように空虚になり、独り占めできるとすぐに満たされる。
 自分の思考がこんなにも単純だったとは、と心の中で苦笑するも、そんな発見も新鮮で。
 暫くして、名残を惜しむようにゆっくりと腕を解放すると、振り向いた彼女の頬はこの上なく上気していた。
 
「ごめん、ちょっと悪戯をしすぎてしまったね」

 そう言いつつも、やはり榊に悪びれた様子はなく。頬を染めた少女に柔らかな眼差しを送りつつ、その頭をあやすように撫でた。
 そんな中、置いてけぼりにされていた小犬が「キャン」と一声吠えた。

「モモ?」

 名を呼ぶと、榊をじっと見詰めるくりくりとした丸い瞳と視線がかち合う。
 言葉は通じないけれど、その黒い目が何を訴えているのかはなんとなく分かった。どうやら、かなでを取られたことが少々ご不満らしい。
 こんなところも飼い主に似るものなのか、となんだか可笑しくて笑みが零れた。
 そんな自分たちの様子を不思議そうに見ているかなでに視線を戻すと、彼女の頬はまだほのかに赤く。実を言うと榊自身も若干の火照りを感じていて。
 お互いの熱とモモの機嫌を直し、尚且つ彼女と少しでも長く同じ時間を過ごしたい。
 けれど、それを全て口にするのは野暮と言うもの。
 だから。

「ひなちゃん、これからモモの散歩に付き合ってくれるかい?」

 榊がさり気なく出した提案は、彼の真意を悟られることもなく、かなでとモモの快諾を得たのだった。





 引越し記念SSを贈ってくださった国高ユウチさまにお礼第二弾です。前回と繋がっております〜。
 モモちゃんって室内犬なんでしょうか。なんとなく、そうしてしまいましたが。
 ユウチさま、前回に続きこちらも受け取ってくださって本当にありがとうございます!


 2010.5.15.up