*掌の中のしあわせ*


 学校の図書室で一緒に勉強をする。それが最近の二人の放課後の過ごし方になっていた。
 榊は大学受験のための参考書を開き、かなでは日々の宿題などをこなす。お互いが見ているテキストは全く異なるけれど、意外に会話数は多くて。

「ん、何か分からないところがあるのかな?」

 数学の教科書を凝視しながら小さく唸っているかなでに気が付いた榊は、彼女の方に上体を寄せて訊ねた。
 白く柔らかそうな頬に息がかかるほどの距離まで顔を近づけると、かなでの身体が一瞬びくりと強張るのを感じた。それと共に彼女の頬がだんだんと紅潮し始めているのを横目でちらりと確認して、榊は内心でほくそ笑んだ。
 こういう彼女の反応は何度見ても初々しくて新鮮で。だから、かなでが戸惑っていると知りながらもつい悪戯心からやってしまうのだ。

「え、えっと…ここなんですけど…」
「どれどれ。ああ、これはね──」

 緊張を含んだかなでの声を聞きながら、彼女が指差す教科書の問題に視線を向ける。それを見た榊はすぐさまかなでに解き方を説いた。
 その通りにかなでが数式を並べていくと驚くほど簡単に難問が解けて。しかも、解答を確認すると見事に正解である。

「わ〜すごいです大地先輩!」
「まぁ、これでも三年生だしね」

 ぱっと表情を明るくさせて小さく拍手までするかなでに、彼女の役に立てたことを少しだけ誇りながらも事も無げに告げる。
 しかし、榊の『三年生』という言葉にかなでは予想外の反応を見せた。拍手をする手を止め、しゅんと肩を落とす。

「……ごめんなさい、いつも邪魔ばかりして」
「邪魔? 何がだい?」
「だって、いつもこうやって勉強を教えて貰っちゃってますよね。大地先輩も受験勉強をしたいはずなのに」
「そんなことはないよ、俺はひなちゃんと過ごすこの時間を楽しんでる」

 顔を伏せるかなでの頭にそっと手を置き、ゆっくりとその髪を梳きながら、榊は優しく微笑んだ。

 夏の全国大会を無事に終えた今、三年生でしかも医大への進学を志望している榊はそろそろ受験に向けて本腰を入れなければならない。
 元々成績が良いこともあって周囲ほど焦りを感じてはいなかったが、榊は最近とある理由で志望校を首都圏に絞った。しかも、それはいずれも最難関と評される大学で。
 彼がそんな選択をした理由を知っているかなでは、何か力になれないかと考えた。
 邪魔をしないことが一番なのだと分かっていながらも、好きな人と一緒に過ごしたいと思うのが恋する者の性と言うもの。それはもちろん榊だって同じで。
 そこで提案したのが、この放課後デートだった。
 立ち寄る場所と言ったら図書室か学院の近くのカフェばかりだったけれど、残り少ない学園生活を榊はできるだけかなでと過ごしたいと思った。
 たまにさっきのように宿題を見てあげることもあるけれど、それを煩わしく感じることなんて一度もなかった。むしろ、些細な悪戯をしてしまうほど浮かれている。
 それに、自分だけを頼って欲しいという子どもじみた独占欲も働いていて。

「俺こそ、あまり遊びに行かせてあげられなくてごめん」
「そんなことないです。大地先輩と一緒にいられるだけで私は嬉しいから」
「……ありがとう」

 大人気ない自分の我侭でかなでを縛ってしまっているのではないかと少しだけ弱気になりかけたが、彼女の言葉と柔らかな笑顔にどこか救われた気持ちになった。
 ずっと一緒にいたい。そんな想いが一層強くなる。
 だからこそ、自分は勉強に励まなければならないのだと榊は再認識した。そう、彼女と自分自身のために。

 かなでの宿題が終わる頃を見計らって、榊は手元の参考書をぱたりと閉じた。時計を見ると、まだ17時を回る前である。

「さて、これからどうする? ちょっとカフェに寄るのもいいね」
「先輩も一段落ついたんですか?」
「うん、もちろん」

 そう頷いて見せたが、実は途中から参考書の文字すら読んでいなかったというのが本当で。
 正直なところ、満足に会話も楽しめない図書室から早く抜け出してかなでとどこかに行きたいというのが榊の本心だった。遠出はできなくとも、一秒でも長く一緒にいたい。
 それは常に思っていることだったけれど、今日は特に強く感じていた。
 先ほど、あんな会話をしたからだろうか。

「ひなちゃんは、どこに行きたい?」

 いつも我慢ばかりさせていることへのせめてもの償いとして、今日はなんでも叶えてあげようと心のうちで決めて、榊はかなでに訊ねる。
 そんな榊の問いに、かなでは頬をやや赤らめながらぽつりぽつりと言葉を紡いだ。

「あ、あの…」
「うん?」
「ご迷惑じゃなければ…大地先輩のお家に行きたいです」
「えっ…」

 どきり、とした。
 表面にはあらわれていないが、今のかなでの言葉に確実に自分の心臓は跳ねたと思う。
 聞き間違いではないかと耳を疑ったけれど、「ダメ、ですか?」と伏し目がちに言われ、榊の一切の思考が停止した。
 目を一度だけゆっくりと瞬かせ、ごくりと生唾を飲む。
 なんて答えればいい?と自問するも答えなど出てこなかった。いつもは回転の速い脳が、全く機能してくれない。
 けれど。

「モモちゃんに会いたいです」

 …………。
 …………………。
 一度停止してしまった回路を復旧させるには予想以上に時間を要するらしい。

「……あ、ああ、なるほど」

 やっと搾り出した言葉は、自分でも情けなくなるほど間抜けなものだった。

「響也は会ったことあるんですよね?」
「……そう、だったかな」
「私、ずっといいなぁって思ってて」
「……はは、そうだったんだ」
「あの…大地先輩、どうしました?」
「い、いや、なんでもない」

 かなでに顔を覗き込まれ、ようやく正常の思考を取り戻した榊は慌てて首を振って答えた。
 心配そうな表情を浮かべるかなでに微笑みかけると、彼女も同じ笑顔を返してくれて。
 それを見て、ふとかなでに愛犬の面影を重ねて何度も頭を撫でていた頃のことを思い出した。あの頃も自分はかなでのことを可愛がってはいたけれど、今は愛しさのベクトルが違う。
 そんなことを考えながら、榊はかなでの髪にそっと手を添えた。

「もちろん、おいで。うちのモモも喜ぶよ」
「やったー、嬉しい!」

 自分の浅はかな思慮に居た堪れない気持ちにもなったけれど、こんなに嬉しそうにされたらその憂いさえも吹き飛んでしまう。

「モモちゃんに会えるの楽しみです!」

 どこまでも警戒心のない笑顔にやや戸惑いを感じつつも、なんとなく彼女らしいと笑みが零れて。

「寂しいな、ひなちゃんの目的はモモだけなのかい?」
「え?」
「ううん、なんでもないよ」

 少しだけ余裕を取り戻したので意地悪を言ってみたりしたけれど、首を傾げる少女にその言葉の真意を告げるのはまだまだ先でいいような気がした。
 机の上のものを全て片付けると、最後に榊は自身の右手を差し出した。

「さぁ、お手をどうぞ」
「よ、宜しくお願いします」

 まだ手を繋ぐことに慣れていないのか、頬を赤く染めた少女がゆっくりと手のひらを重ねる。
 やっと触れることのできた柔らかな感触と体温を慈しむように、そしてこの幸福を噛み締めるように、榊はその小さな手を優しく包みこむのだった。





 引越し記念SSを贈ってくださった国高ユウチさまにお礼として送りつけてしまいました!(なんて迷惑な)
 振り回され気味な榊です(笑)
 ユウチさま、受け取ってくださって本当にありがとうございます!


 2010.5.1.up