*オオカミの恋情*


 視線を合わせると、怯えられるか威嚇されるのが常だった。
 運良く近づけても、手を伸ばすといつも逃げられた。そのとき稀に引っ掻かれたり噛み付かれたりもした。
 傷つかない、と言えば嘘になる。
 けれど、もう何年もそんな反応ばかりを向けられるものだから、慣れてしまったというのが一番相応しい心境なのかもしれない。
 それなのに、その対象を見つけてしまうとつい手を差し伸べたくなるのは何故なのか。
 火積という少年は、自分の優しさには無関心だった。

 星奏学院は夏の全国大会中、学院の施設を大会参加者のために開放した。
 そのため自校以外の学生も学院内で多く見かけられた。特に森の広場には、楽器の練習をしたり、弁当を広げたり、のんびり談笑したりと様々な用途のために多くの学生たちが集まった。
 火積もその中の一人で、自主練習のときにはよく森の広場に出向いた。
 周囲の環境を気にすることなく演奏に没頭できたし、緑に囲まれながらトランペットを吹くと清々しい気分になれるのも火積がその場所を好む理由の一つだった。
 懐くことはないけれど、たまに見かける猫も火積の心を癒してくれた。
 そして、最近ではそれらに加えもう一つの理由ができて。

 ある日、森の広場でかなでと昼食を共にしていると二人の背後から「みゃあ」という愛らしい鳴き声が聴こえてきた。
 同時に振り返ると、少し離れたところに一匹の白い仔猫が見えた。
 白というこの付近ではあまり見かけぬ毛色に、「迷子かな」とかなでは首を傾げたが、転校したばかりの彼女以上に星奏学院に馴染んでいない火積には即座に答えることができなかった。
 けれど、頻繁にここを訪れる火積でも、白い猫との遭遇は初めてのことで。
 その珍しさについじっと見詰めていると、視線がかち合った仔猫はその場でビクンと全身を振るわせ、僅かに後退さった。

「あ、待って。迷子なら飼い主を探さなきゃ」

 そんな事情など知らないかなでは、単に逃げ出そうとしていると勘違いして、すぐさま立ち上がり、猫の方に駆け寄った。
 かなでの後ろ姿を目で追いながら、またやってしまった、と火積は眉を顰め小さく嘆息する。
 慣れているとは言え、ちくりと胸に刺さる痛みは火積の顔を僅かに歪ませた。
 かなでが傍に寄っても猫は逃げ出すことなく、その場に留まっていた。
 大丈夫だよ、と優しく声を掛け、かなでが膝を屈めると、安心したように彼女の太股辺りに身を摺り寄せた。本来は人懐っこい猫なのかもしれない。
 かなでが抱き上げると、仔猫はゴロゴロと喉を鳴らしながら今度は小さな顔を引っ付けてきた。その仕草に「くすぐったいよ」と笑いながら、かなで自身も頬を寄せる。
 目の前ののどかな光景に、火積の表情も自然と柔らかくなった。胸の痛みもゆっくりと癒えていく。
 猫を抱きながら戻ってくるかなでに、火積はばつが悪そうな表情を向けた。

「すまねぇな。俺のせいで危うく逃がしちまうとこだった」
「え、そんなことないよ。私たちが急に振り向いたからびっくりしちゃったんじゃないかな?」

 知らない人に見詰められたら私だって驚くもん、そんなことを言いながら腰を下ろしたかなでは腕の中におさまっている仔猫を撫でる。
 真実は分からない。けれど、彼女の言葉はいつも火積の心を軽くしてくれた。今だって、わだかまりのようなものがすっと消えるのを感じて。
 火積が仔猫に視線を向けると、先ほどよりもどこか活発な印象を受けた。
 と言うのも、小さな白猫はどうやらかなでが作った弁当に興味があるらしく、彼女の腕の中にいながら、下方にある弁当を凝視し前足をぶんぶんと振り回しているのだ。

「もしかして、お腹すいてるのかな?」
「ああ…この弁当の匂いに釣られてきたのかもな」
「うーん、でも人間が食べるものをあげちゃダメだよね」
「そういや…コンビニで猫缶を見かけたことがある」

 火積がぼそりと告げると、かなではぱっと表情を明るくした。

「それなら、まずこの子をお腹いっぱいにしてあげて、その後飼い主さんを探そう?」
「…ああ、だな」

 かなでの提案に頷いた火積は、腰を上げ、制服についた草を適当に払った。
 慌てて立ち上がろうとするかなでを制し、彼女に視線を向ける。

「俺が買ってくるから、あんたはここにいろ」
「…え、でもいいの?」
「俺の方が足は速いだろ」

 それに自分が猫と残ることになってしまったら、絶対に怯えさせてしまう。
 火積のぶっきら棒な物言いに、けれどかなでは微笑みを返した。

「ありがとう。待ってるね」
「…ああ」
「優しいお兄ちゃんがご飯持ってきてくれるから安心してね?」
「俺は優しくなんかねぇ」

 かなでが猫に向けて言った言葉を否定するも、

「ううん、火積くんは優しいよ」

 首を振り、そう告げる大きくてまっすぐな瞳は火積だけを捕らえていて。
 その眼差しから逃れられないでいると、小さな仔猫が「みゃあ」と自己主張をするように鳴いた。

「ほら、この子も待ってるって言ってるよ」
「…ああ、そう、かもな」
「ふふ、可愛いね。撫でてあげたら?」
「…いや、俺は」
「毛、柔らかいよ?」

 肌触りを確認するように頬を寄せ、微笑みかけてくれる少女を見て、火積の胸にじんわりと熱が生じる。
 彼女の腕の中にいる仔猫は確かに愛らしい。つい手を差し出して、その頭を撫でたくなるほどに。
 けれど。

「……あんたも、な」

 そう告げて、火積は右手をかなでの頭に載せた。ゆっくりと撫でると、その髪の毛も柔らかで。
 その行動に目を見開いたかなでが火積を見上げるも、彼が視線を合わせることはなかった。すぐさま手を離し、「行ってくる」とぼそりと呟いたと思えば、そのまま背を向けて駆け出してしまう。
 だんだんと遠ざかる背中を見詰めるかなでの頬はほのかに赤く、しかしそれ以上に火積の顔は真っ赤に染まっていたのだが彼女とその腕にいる仔猫には悟られることはなかった。





 火積が森の広場が好きなもう一つの理由は、かなでが来てくれるからです(妄想)
 最初は広場にいる猫でもいいかなと思ったんですが、「星奏の猫は人懐っこい」という内容のメールを見つけてぎゃああ!となり(火積に対して怯えてほしかったので)、急遽変更しました(笑)
 ちなみに迷子の仔猫ですが、悠人や榊の助けを得て数時間後無事飼い主のもとに戻りました。


 2010.4.20.up