*アナタノオト* 盛夏の午後、星奏学院の練習室内に滑らかな旋律が流れる。 不意に、一人の男子生徒が演奏の手を止めた。 「ちょっと待ってください」 周囲に向かって、そう告げた後、少年―水嶋悠人はすぐ傍にいる女生徒に鋭い視線を送った。 「分かってますよね?」 「……はい」 その有無を言わさぬ声色に、橙色の髪を持つ少女は身を小さくして答える。 「さっきから何度も同じところで躓いています。気をつけるよう言ったはずですが?」 「……申し訳ないです」 少女もまた自分に非があることを重々承知しているため、反論することなく、その場で項垂れる。 周りにいる他のメンバーにも謝罪の意を込めて、目配せを送ると、ヴィオラ担当の榊が慰めるように、その柔らかな髪をぽんぽんと撫でた。 ──また、そうやって彼女を甘やかす。 その言葉を声に出すことはなかったが、悠人の表情にありありと表れていた。 「大会まで時間がないんです。しっかりしてください、小日向先輩」 「……はい」 「聴こえません。もっと胸を張って言ってください」 「は、はい! ごめんなさい!」 そんな二人のやり取りを見ていた響也が、呆れた表情で口を開く。 「相変わらず、こいつには厳しいのな」 「先輩たちが甘すぎるんです」 悠人がきっぱりと告げると、響也はやれやれとあからさまに肩を竦めた。 「響也、お前も演奏が雑になっている。注意しろ」 「…ふん」 兄である律の指摘に、不満気な態度で視線を逸らす。 「ま、休憩はこれくらいにして、そろそろ再開しようか」 一層重くなった空気を察し、榊が努めて明るい声で皆に呼びかけた。 「そうだな、では初めから流そう」 律の声を合図に、みなが視線を自身の楽器に向ける。 そして、演奏が再開された。 椅子に座っている悠人からは、立って演奏をするかなでたちの表情を窺うことはできない。 けれど、耳を澄ますことで、その音を感じることはできる。 全体の音、自分自身の音、そして、彼女の音。 何度も同じところでミスをするので、その問題のパートに演奏が近づくと、悠人の意識も自然と研ぎ澄まされる。 けれど。 ──やれば、できるじゃないですか。 途切れることなく奏でられたその音に、思わず口端が上がる。 安堵に少し意識が緩んだ瞬間、耳に届いた旋律に違和を感じて、その手を止めた。 「すみません。また待っていただけますか」 制止の声を上げて、悠人は勢いよく席を立った。視線を向ける相手は、もちろんかなでだ。男性にしては小柄な体躯の悠人だが、かなでと並ぶとやはり彼女を見下ろす形になる。 「小日向先輩?」 「え? あ、あの」 怒りを隠さない威圧的な声に、かなでもしどろもどろになる。 「散々注意したところをクリアした瞬間にミスですか? とてもいい流れだと思ったのに、どうして――」 「悪ぃ、ハル」 悠人の肩に手を置き、言葉を遮ったのは、響也だった。彼は、苦々しい表情を浮かべながら、けれどはっきりと告げる。 「今のミスはオレだわ」 「……え?」 その言葉に耳を疑う。 「だから、オレのミス。悪い」 「やはりな。さっき注意しろと言ったはずだが?」 「いちいちうるせーんだよ、バカ兄貴」 「俺のことは部長と呼べと何度言ったら――」 「あーあーあー」 「おい、聞いてるのか?」 「まぁまぁ二人とも」 言い合いを続ける兄弟と仲裁に入る榊の声は、悠人の耳には入らなかった。 かなでの方に向き直ると、彼女は少し困ったような表情を浮かべて、自分を見ていた。 「……そうですか。すみません、僕の早とちりです」 頭を下げる悠人に、かなでは慌てて首を振る。 「ううん、間違えるのはやっぱり私が一番多いから。そう思うのは仕方ないよ」 彼女はそう言ってくれたが、悠人は顔をすぐに上げることはできなかった。 あんなにも偉そうなことを言っていたくせに、自分だって気の緩みで音を聴き間違えてしまったのだ。 かなでにどんな表情を見せればいいのか、今の悠人には判断できなかった。 「でも、演奏中も気にかけてくれてたんだね。ありがとう、ハルくん」 けれど、悠人の耳に届いたのは、そんな言葉で。 「なっ…」 勢いよく顔を上げると、目の前にいる彼女は自分に笑顔を向けていた。 「さっき、いい流れだって言ってくれたよね。凄く嬉しかったよ」 「な、なんでですか。急に…その、礼を言われても困ります」 「でも、言いたいの。ありがとう」 次も頑張るね。 そう言って目を細める彼女に、胸の奥が一気に熱を帯びるのを感じた。 「……あなたのことが分かりません」 かなでに背を向け、悠人はぼそりと告げる。それが戸惑いの中で生まれた、正直な気持ちだった。 ララスペシャルを読んで思い浮かんだ話です。 突っかかってるってことは、気にしてくれている証拠かな、と。 ツンデレって難しい(笑) 2010.1.10.up |