*その感情の名は*


 元町通りで散策をしていたら、七海に声を掛けられた。
 昼を一緒に食べないかと誘われて、本当は乗り気ではなかったけれど、目の前の後輩をあまりいじめるのも可哀相なので仕方なく頷く。

「コンビニへ行きますか? またおすすめのジュースがあるんですよ!」
「ああ、そう」

 笑顔で言われ、以前勧められたマンゴージュースの件で懲りていた僕は曖昧な返事だけを返した。
 嫌な予感を胸に抱きつつも、今度は七海と二人で通りを歩く。平日と言っても夏休みでもあるためか、昼過ぎの街中は人混みで溢れていた。
 七海が話す内容に適当に相槌を打ちながら、ふと遥か前方に視線を向けると、その先に小日向さんの姿を見つける。
 でも彼女は一人ではなく、僕と同じように誰かと並んで歩いていた。
 その人物は、制服を見る限り星奏学院の生徒ではないようだった。他校の生徒のことをほとんど知らないため、誰であるかは分からないけれど、小日向さんと顔見知りであることだけは確かで。
 二人の間に流れている空気は遠目で見ても決して和やかには見えなかったが、彼女の表情はどことなく明るいように感じられた。

「どうかしましたか?」

 僕の相槌が止まったのを不思議に思ったのか、七海が横から顔を窺ってくる。
 別になんでもない、と答えようとしたら、僕の視線を追った七海が嬉しそうに声を上げた。

「あ、小日向さんと…東金さんだ」

 東金という名に、どこかで聞いたような感覚を覚える。
 確か、前年度のヴァイオリンソロ大会の優勝者がそんな名前だった。小日向さん以外目に入っていない冥加は、敵ではないと豪語していたけれど。
 そういえば、次のセミファイナルでは星奏学院と神南高校は同じ日にあたっていたはずなのに並んで歩いているなんて、と一瞬疑問が過ぎったが、僕が天音の生徒で、大会の参加者と知った後も彼女は変わらぬ態度で接してくれたことを思い出し、今更だなと心のうちで苦笑する。たとえライバルであっても敵視することなく笑顔で付き合えるのが小日向さんであり、それが彼女の美点なのだから。
 でも、僕と同じように、東金くんとやらにも接しているのは正直あまり面白いことではなかった。

 彼女の興味も別の人間に向いてしまうのか、と諦めにも似た感情と共にあのときの苦い記憶がふつふつと甦る。
 幼少の頃から先生の期待を一身に受けていた僕は、突然現われた冥加にその座を奪われて、自分の居場所をなくした。冥加の存在を疎ましく思った時期もあったけれど、僕には表現できない彼の“人間らしい音色”を耳にし、彼との実力差を目の当たりにしてしまったときに、そんな感情さえも儚く消え失せた。
 その後、先生の興味は僕に向けられることはなく、冥加を連れてヨーロッパに行ってしまった。それからの日々は虚ろすぎて記憶にもない。
 ──同じ、なのだろうか。
 彼女も、小日向さんも、新しく現れた人間に興味を抱き、最後には僕のことを捨ててしまうのだろうか。
 僕はまた一人になることを、あのときのように受け入れてしまうのだろうか。
 恋をするという結果さえ得られれば、誰が彼女を好きだろうと彼女が誰を好きだろうと構わない、と御影さんにも言ったはずなのに。今でもそう思っているはずなのに。

「やっぱり面白くないな」

 思考が無意識に声に出る。自分でも身勝手なことを言っているという自覚はあるけれど、この気持ちだけは抑えられそうにないらしい。

「ねぇ七海、彼女も昼食に誘わないかい?」
「え?」
「きっと楽しい時間になるよ」

 小日向さんにのみ向けている視線を戻すことなく、僕はゆっくりと自分の口の端を上げた。
 僕はまだ、彼女を諦めたくはない。






 無自覚な嫉妬を書きたかったのですが、色々失敗…。
 最初は東金ではなく響也を出すつもりでしたが、「後から現れた人物」の方がしっくり来るので東金に変更しました。


 2010.4.5.up