*夏の終わりの秘め事*


 星奏学院が全国優勝を果たし、今年の夏ももうすぐ終わりを告げようとしている。
 けれど、一人の少女を巡る闘いは未だに終幕を迎えずにいた。
 我が校の部長、副部長はその少女を神南に引き入れるまで神戸には戻らないと駄々を捏ね、未だに菩提樹寮に居座っているし、至誠館高校吹奏楽部の部員たちも何かと理由をつけて滞在期間を延ばしていた。
 他校である俺たちの滞在延長を素直に喜んでくれる少女とは対照的に、周囲の魔の手(?)から彼女を守ろうとする星奏のオケ部メンバーは始終目を光らせ、片時も彼女の傍から離れずにいて。
 そんな状況に当の本人は息苦しさを感じてはいないかと少しだけ憂慮するも、前述した通り彼女は俺たちの滞在を素直に喜び、一人一人の演奏練習やデート(たぶん彼女は気づいていない)の誘いに春のやわらかな陽光を思い起こさせる笑顔で応じていた。

 ある日の、空が茜色に染まる時間帯に彼女──小日向さんは菩提樹寮に珍しく一人で帰ってきた。
 ラウンジで山積みの会計報告書と睨み合いを続けていた俺は、戻って来た彼女への第一声が見つからず、間抜けにも「おかえりなさい」と声を掛けてしまった。
 けれど、小日向さんの方は別段気にする様子もなく、「ただいま」と俺にも笑顔を向けて応えてくれた。そのやり取りに不愉快ではないむず痒さを感じるも、俺は平静を装って言葉を続けた。

「お一人ですか? 確か部長たちと練習をすると聞いてましたが」
「うん、だけど途中でファンの人たちに声を掛けられて」

 小日向さんが言うには、そのファンたちは横浜在住らしく、数日後には神戸に戻ってしまう部長たちとどうしても話がしたいと熱心に言われたらしい。純粋な熱意に心打たれた彼女は、自分が邪魔をしてはいけないと、その場は部長たちに任せ、一度寮に戻ることにしたという。
 その現場を目撃していないものの、彼女に逃げられた(やや語弊はあるが間違いではないだろう)部長と副部長の悔しそうな顔がありありと目に浮かぶ。
 普段は俺や他の部員たちを振り回している彼らだが、小日向さんの天真爛漫さには敵わないようで。好意で身を引いてくれた彼女を責められる訳もなく、だからと言ってファンたちを蔑ろにもできない部長たちの優しさを知っているからこそ、ライバルたちを出し抜いてせっかく得たこの好機を逃すしかなかった彼らを不憫に思った。
 けれど、彼女とこんな風に二人きりでのんびり話せることに浮かれている現金な自分もいて、部長たちに申し訳なさを感じつつも、いきなり舞い降りたこの偶然に少しだけ感謝したい気持ちになった。

「紅茶でも淹れましょうか?」
「え、でも、今お仕事中じゃ?」
「いえ、ちょうど休憩をするつもりでした。だから小日向さんもいかがですか?」
「それなら宜しくお願いします」

 ぺこりと頭を下げる彼女に微笑みを返し、俺は手早く準備を始めた。

「最近は忙しそうですね」
「え、そうかな」
「毎日多くの方から演奏などに誘われて、引っ張りだこのようですが」
「あ、うん、皆さん親切で色々なことを教えてくれるんです」

 おそらく、いや確実に彼女はその奥に隠れた下心に気付いていない。
 俺がここに滞在してそろそろ一ヶ月になる。だから、彼女の周囲にいる人間たちの一人一人が気のいい者であることは十分に承知しているつもりだけれど、それでもやはり大なり小なり彼女の気を引きたいという思いはあるだろう。
 けれど、そういう事情に疎い彼女は全てを親切として受け入れている。多分、俺が差し出したこの紅茶も。

「みんな、あなたが可愛いから構いたくて仕方ないんですよ」
「そ、そんなことないですよ。私が頼りないから…」
「星奏が優勝を果たしたのはメンバー全員の力でもありますが、1stであるあなたが導いたと言っても過言ではないでしょう。もっと自信を持ってください」
「う、うん。ありがとう」

 照れるように頬を僅かに染めた小日向さんが俺からティーカップを受け取り、それをゆっくりと口に含んだ。

「…芹沢くんの紅茶って、やっぱり美味しいね」
「そう言っていただけると嬉しいです」

 実は彼女か気に入ってくれるかどうか内心穏やかではなかったのだが、そんなことは勿論表には出さない。
 幸せそうな笑顔を見せる小日向さんをずっと目に留めていたかったけれど、見詰め続けるのも気恥ずかしくなって、ふと視線を彼女から外した俺はその先にあるものを見つけて口元を緩めた。

「小日向さん」
「はい?」
「俺と一曲合わせていただけませんか?」
「え、私と…でいいんですか?」

 彼女が戸惑うのも無理はないだろう。俺は一度も彼女と音を合わせたことがない。
 けれど、二人きりというこの好機に、しかも目の前にグランドピアノがあるのだから誘わない手はない。ちょうど彼女の横にも部長たちと演奏をするために持っていたヴァイオリンケースがあるのだから尚更だ。

「ええ。部長たちが戻ってくるまでで良いので、ぜひ」

 俺がもう一度言うと、彼女は「はい」と頷くとティーカップをそっと置き、ヴァイオリンケースに手を掛けた。

「なんだかわくわくするね」
「ええ、俺も同じです」

 そう同意したものの、俺の胸の騒ぎは彼女のものとは異なるだろうと思った。
 彼女と演奏できるという喜びもあるけれど、この時間だけは彼女を独占できるという優越感も多分に含まれているのだから。
 このひとときを誰にも知られず、邪魔されず、できることならば夏の終わりの秘め事になるようにと胸の中で祈りながら、俺は鍵盤に静かに指を載せた。





 この二人同学年なんですよね。
 芹沢が丁寧な口調なのでかなでも若干つられてますが、基本的には普通の話し方を意識しました。
 うーん、どっちの口調がいいのか悩みますね(笑)


 2010.3.20.up