*rainy day,childhood friend*


「雨か…」

 個人練習を終え、何気なく練習室の窓を覗いた律は、窓にあたる水滴を見て小さくそう呟いた。
 事前に用意はして来なかったものの確か教室に折り畳み傘を置いていたはずだと思い、退室後そのまま自分のクラスに向かう。
 下校時間も迫っているためか、校内はしんと静まり返っていた。こつこつと一定のテンポを刻む律の足音だけが廊下に響く。
 あいつが雨に打たれてなければいいが。そんな懸念がふと頭を過ぎったとき、廊下の先に人影を見つけ、律はその足を止めた。
 眼鏡のブリッジを上げ、目を凝らしてみると、そこには今し方思いを巡らせていた少女の姿があって。
 偶然にしては都合が良すぎると、一瞬自分の想いが作った幻ではないかと疑ってしまったけれど、窓の前に立ち、外をじっと眺めているのは紛れもなく彼の幼なじみだった。

「小日向?」
「……あ、律くん」

 名を呼ぶと、かなでは窓に向けていた視線をこちらに移し、ふんわりと律に笑い掛けた。けれど、その表情はどこか儚げで。
 近寄り、彼女が先ほどまでしていたように、律も窓の外に目を向ける。

「雨、降ってきちゃったね」

 ぽつりと呟かれたその言葉に、かなでの手元を窺うと、スクールバッグとヴァイオリンケースだけが目に入った。

「もしかして傘を持っていないのか?」
「……うん」

 しょんぼりと項垂れるかなでを見て、律はふっと息を吐いた。
 憂いを帯びた彼女の横顔に、何か心を痛める出来事があったのかと憂慮したが、どうやらそうではなかったらしい。

「そんなことで落ち込んでいたのか?」
「うん、だってだんだん強くなってきてるし。……呆れた?」

 先ほどの律のため息をどう解釈したのか、おそらくマイナスの意味で取ったのであろうかなでは更に肩を落としてしまう。
 けれど、人情の機微に疎い律は、かなでの落胆に気づかない。

「いや、そうではない。困っているのなら、携帯で報せてくれれば良かったのにとは思ったが」
「そんなことできないよ。律くん、もう寮に戻ってると思ったし」
「たとえ寮にいたとしても迎えに行くさ。お前がずぶ濡れになるより、ずっといい」

 しかし、そんな彼だからこそ、紡がれる言葉に粉飾は一切なく。
 かなでの肩にぽんと手を置き、律は柔らかな口調で続けた。

「教室に傘を置いてある。今日はそれで帰ろう」
「……ありがとう」

 頭を下げるかなでの後頭部を優しく撫で、律は三年生の教室に向かって歩を進めた。律の手の感触が残る頭にそっと触れ、気恥ずかしさに頬を染めながら、かなではどんどんと先へ行ってしまう幼なじみの背中を追い掛けた。

 * * *

 律の教室で目当ての傘を見つけた二人は、のんびりとした足取りでエントランスに向かっていた。
 廊下を歩いているときも階段を下っているときも、律は必要以上の言葉を発しなかったが、その視線は常にかなでの足元に注がれ、彼女が過って足を滑らせないようにと注意を払っていた。

「遅いぞ、かなで!」

 一階に辿り着き、正面玄関が目前に迫ったところで、聞き慣れた声が二人の耳に届いた。

「え、響也?」
「ん、お前もまだ残っていたのか?」
「げっ、なんで律もいんだよ……」

 かなでの隣に並ぶ兄の姿を目にし、あからさまに眉を顰めた響也が不満を隠すことなく零す。

「響也も雨宿りしてたの?」
「ちがう、お前を待ってたんだ! 朝傘なんて持ってなかったら、困ってるんじゃねぇかと思って待ってやってたんだよ! ずっと!!」

 ちょこちょこと傍に駆け寄り、小首を傾げるかなでに、響也は右手を忌々しげに突き出した。その手には、市販のビニール傘が握られていて。

「そうだったんだ、ごめんね」
「……はぁ、もういいよ」
「でも、待っててくれて、ありがとう」
「……別に礼もいらねぇって」

 すまなそうに身を縮めるかなでをそれ以上責めることもできず、響也は額に手を当て、盛大にため息を吐いた。そして、目の前に立つもう一人の人物をじろりと睨む。

「律と帰る約束でもしてたのか?」
「ううん」
「小日向とは、廊下で偶々会ったんだ」
「……ふーん」

 律の言葉にかなでも頷くが、響也は主に兄に対して不審の目を向けたままで。

「ん、何か変なことを言ったか?」
「いーや、別に。ってか、もうすぐ下校時間だろ? さっさと帰ろうぜ」

 首を捻る律に、嫌味も通じないのかと内心悪態をつきつつも、響也は二人を正面玄関へと促した。

「わぁ、さっきより強くなってきたかも」

 出入り口の扉の前で、ガラスを隔てた先にある分厚い雨雲を見上げながら、かなでは小さく呟いた。そんな彼女の横に立ち、不貞腐れた表情で響也が告げる。

「かなで、オレの方に入れ」
「え、いいの?」
「当たり前だろ。お前濡れて帰る気か?」
「でも、響也の傘小さくない? 私が入ったら濡れちゃうかも」
「……律の折りたたみ傘だって、オレのと大差ないだろ」
「ああ、そうかもしれないな」
「そう、かな…」
「小日向は気にせず響也の方に入るといい。俺はそれを持とう」

 そう言って、律はかなでの持っていたヴァイオリンケースを半ば強引に奪い取った。

「え、悪いよ、律くん」
「ん、なぜだ?」
「だって、律くん、自分のも持ってるのに」
「いや、これくらいなら問題ない。それに俺が持った方が濡れずにすむだろう?」
「なんなら、オレのも持ってくれよ。そしたらスペースができる」
「それは無理だ。俺の手は二本しかない」

 響也のやや刺を含んだ提案にあっさりと正論で返し、律はそのまま外へと出て行ってしまう。そんな律を追うように、かなでも後に続く。

「おい、いきなり飛び出すなって! 律も歩調を合わせろ!」

 文句を言いつつも、かなでが雨にあたらないように傘を傾けながら、響也は急いで二人の元へ駆け寄った。

 * * *

 寮へ続く道を、三人で並んで歩く。
 しとしとと降り続く雨は、何か楽しげな旋律を奏でているようにも聴こえて。

「なんだか懐かしいね」

 両端にいる兄弟に視線を送り、そう呟いたかなでの表情は、天気とは裏腹に晴れやかだった。

「は? なんだよ、いきなり」
「懐かしい?」
「うん。小さい頃もこうやって、三人で一緒に帰ったなって思って」
「そう、だったな」
「お前、ガキの頃から傘をよく忘れてたよなぁ」
「響也が忘れるときだってあったよ」
「けど、お前の方がぜってぇ多い」
「むっ」
「俺からしてみれば、どっちもどっちだよ」
「むぅ…」「ぐっ…」

 かなでと響也のちょっとした言い合いも、律の一言で小さな呻きに変わる。
 そのやり取りさえもどこか慕わしく、やがて誰ともなく笑い声が漏れる。三つに重なったその声は周囲の雨音をも掻き消した。


 ──そして。

「おやおや、随分と仲のいい」

 寮に向けて足を進める三人に好奇の視線を送る影が一つ、思わぬ光景を目撃し、ぽつりと艶やかな声を漏らす。
 自らも傘を差し、もう片方に寮内で見つけた友人の“忘れ物”を携えて。気が向いたので学校まで届けてやるつもりだったのだが、どうやらその必要はなかったらしい。
 こんなことならば、傘ではなくデジカメを持ってくれば良かったと胸中で愚痴りながらも、遠くからでも十分確認できる友人の穏やかな表情に少女はその口元を緩ませた。





 お友達記念として、相互リンクをしていただいている国高ユウチさまに捧げました。
 拙い文章ですが、受け取ってくださってありがとうございます!!
 ユウチさま、これからもどうぞ宜しくお願いいたします(´▽`)


 2010.3.12.up