*全てに焦がれる*


 唐突に野菜ジュースを差し出され、その行動の不可解さに罵りの言葉を浴びせた。
 わざわざ俺の元に駆け寄ってきたことさえ理解に苦しむというのに、なんの臆面もなく「忙しそうだから、十分に栄養が取れないと思って」などと言ってきて。
 苛立ちを抑えきれず、さっさと捨ててしまえと語気を強めて突き返すと、小日向は明らかに落胆の色を見せ、その顔を伏せた。
 こいつは、俺がどんな反応を返すと思っていたのだ、という疑問が脳裏を過ぎる。
 嬉々として受け取り、あまつさえ自分に礼を述べる姿などを期待していたのだろうか。
 否、この女は見返りなぞ求めてはいない。ただ、純粋に親切心から動いているのだろう。
 けれど、心を配る相手を間違えていることになぜ気がつかないのか。

「……貸せ、処分くらいはしておいてやる」

 居た堪れない空気に耐えかね、胸の前で両手に持ったそれを奪い取り、さっさとその場から立ち去ろうと一歩足を進めたそのとき、

「ありがとう!」

 先ほど見せた表情からは予想も付かぬほど明るい声が、背後から俺の耳に届いた。
 反射的に振り返り、その顔を捉えてしまったことを後悔する。
 【喜】びを隠さない笑顔が、七年前に向けられたそれと重なり、憎悪ともう一つの感情がふつふつと湧き起こった。
 立ち止まり、硬直してしまった俺を見上げて、小日向は小首を傾げる。
 目の前のこの女は、俺が“誰”であるのか、俺に“何をしたのか”さえ覚えていないのに。俺はあの日からこいつに囚われたままで。
 そんな表情を俺に見せるな。
 そうはっきりと告げられたなら、どんなに楽だろうと。けれど、太陽よりも輝いてさえ見えるそれが陰ってしまうことを拒む自分もいて。
 ない交ぜになった感情を整理できぬまま、俺は黙ってその場を立ち去ることしかできなかった。

 * * *

 非常に不名誉なことに、小日向が俺の妹に間違われた。
 こんな女が俺と血縁関係であると誤解されたことも、しかもよりによって枝織であると認識されたことも全てが不愉快だった。

「貴様の見た目が中学生レベルということだな」

 嫌味を込めて事実を指摘したら、普段どんなに罵倒しても怯みもしないのに、そのときの反応は少し違っていて。

「むっ」

 小さく唸り声を出し、頬を膨らませたかと思うと、両手で自身の柔らかな髪を梳き、夜風に煽られ乱れてしまっていた部分を整えた。
 そして、「どうですか?」などとただ手櫛で梳いただけなのに、したり顔で俺に返答を求めてくる。

「だからなんだと言うんだ?」
「少しは大人っぽく見えるかなって」
「諦めろ、貴様がいくら背伸びをしようと無駄なことだ」
「ひどいっ」

 俺の言葉に面白いくらいの反応を示す小日向に、演奏者以外の一面を垣間見る。
 一瞬しゅんとしたものの、すぐさま顔を上げ、俺にその大きな瞳を向けて言うには、

「冥加さんが大人っぽいから、私が子どもに見えるだけじゃないですか?」
「俺のことは関係ない。だが貴様が幼く小さいことは事実だろう」
「ち、小さくないです。ごく一般的ですから! …たぶん」
「フン、その言動が子どもだと言うのだ」

 小日向の反論全てを一蹴してみせる。音楽のことに関しては曲がらぬ強い意志を持ち合わせているのに、それ以外のことを突くとこんなにも柔い。

「それに、枝織の方がまだ落ち着きがある。貴様はまるで小学生だな」
「枝織ちゃんは確かに落ち着いてますけど、私だってっ」

 対抗心を向けること自体が子どもだと言うのに、当の本人は気づきもせず。
 【怒】りと呼ぶには程遠いが、むきになるその姿に、俺の口元は無意識に緩む。
 俺の視界の遥か下方でぶーぶーと文句を言っている小日向を見て、どういう気の間違いか、こいつをもう少しだけ傍に置いてやってもいいと思った。

「貴様が俺の妹だなんて不本意極まりないが、仕方ない。今日はその立場を有効に使ってもらうぞ」
「え?」
「ついて来い」

 小日向の返事を待たずに、俺はホテルに向けて足を進める。
 あいつならば、きっと追いかけてくる。
 そんな確信にも近い予感が、なぜか俺の脳裏を過ぎった。

 * * *

 名も知らぬ公園で、珍しくあいつの姿を見かけた。
 いつもは慌しくもどこか危なげに街中を走り回り、頼んでもいないのに目の前でヴァイオリンの演奏を披露してみせたり、同じく頼んでもいないのに差し入れを寄越したりしてくるのに、その日は一人きりで、ただぽつんと突っ立っていた。
 あいつが寄ってこない以上、俺があいつの元に近づくはずもなく。
 しかし、普段と異なる行動をされると嫌でも気に掛かる。
 小日向の視界には決して入らぬよう注意を払い、けれどその距離をだんだんと詰めていけば、ヴァイオリンケースなどを持たぬその手で何かを包んでいるのが目に入った。
 それが何かは判別できない。けれど、それはあいつの手に納まるほど小さいもので。
 項垂れて、柔らかな髪が顔を覆っているため、その横顔がどんな表情を浮かべているかも分からない。
 けれど、小刻みに揺れる肩に、頬を伝い、顎から零れ落ちた水滴に、あいつが【哀】しんでいることだけは分かった。
 屈服させてやりたいと思った女の涙を見ているのに、俺の心に生まれた感情は動揺のみで。
 何か強い力で引き付けられるように、あいつから目が離せずにいた。
 七年前、出会ったときもあいつは泣いていたと、また幼い記憶が甦る。
 あのときは手を差し伸べることができたのに、今の俺にはそんな資格もない。勿論、あいつも望んではいないだろうが。
 自分自身が何をしたいのか分からなかった。分かりたくもなかった。
 けれど、突如俺の胸に生じたざわめきは、否定するには大きすぎて。
 俺の存在など気づきもしないあいつはゆっくりと茂みの奥に入っていったが、無力な俺はただその背中を見送ることしかできなかった。

 * * *

 ファイナルを間近に控えたある日、山下公園であいつの演奏を耳にした。
 数ヶ月前に聴いたそれとは異なり、人の心を惹き付ける音を奏でるようになった小日向に、やっと本来のものを取り戻したのかと俺は自分の胸が高鳴るのを感じた。
 ヴァイオリンを弾く姿も【楽】しげで、ステージの上にいないのにもかかわらず、俺には美しく輝いて見えて。
 まさにその姿は七年前のあいつそのものだった。
 これならば、ファイナルの舞台でも同じ、もしかしたらそれ以上の輝きを披露することだろう。
 俺の望みは、一つ。俺の心を捕らえて離さないこの女からの決別、ただそれだけだ。
 決勝では、小日向から真の勝利を得、屈辱を味わったあのときの全てを清算してやる。
 そう決意を固くし、演奏が終わる前に聴衆の輪から外れようと足を踏み出すも、その場から離れる目前で、もう一度光を求めるようにあいつの方を振り返る。
 目に映ったあいつの姿はやはり美しく、いつまでも留めておきたいとさえ思ったが、そんな名残惜しさを無理矢理に打ち消し、俺は足早に公園を後にしたのだった。

 * * *

 この夏の間に、俺はあいつの様々な表情を目にした。
 その一つ一つに俺の心は乱され、けれど全てに惹き付けられたのだろう。
 あのときは分からなかったことが、今の俺には手に取るように理解できる。そして、認めることも。
 俺はあいつの音に焦がれ、あいつ自身にも惹かれていった。それは、まるで重力によって引き寄せられるように、必然に。
 
 誰もいないホールで、俺はヴァイオリンを構える。
 あいつの喜びも、怒りも、哀しみも、愉楽も、そして愛さえも我がものにできるのならば。
 俺も全てを捧げよう。そう胸に誓って。
 あいつへの想いを余すことなくヴァイオリンの音色に乗せ、俺はステージでただ一人のために愛を奏でた。





 なんか捏造ばかりですみません(汗) 特に3つ目は言い訳のしようがないというか。
 かなでの笑顔にキュンとなる冥加さんを書きたかったのに、もう全てにキュンキュンしちまえYO!と欲を出した結果がこれです…嗚呼。



 2010.3.8.up